≫斉藤斎藤さん @saitohsaitoh による「作者主義/読者主義/いいね主義」
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発端になった「歌会こわい」騒動、これはまあ、どうでもよくてね、例えば俳句の場合、「句会こわい」という人がいたら、もっと怖がるようなエピソードを教えてあげて、おもしろがればいいんです。夜中の怪談話のノリ。それに、自作を評されたり無視されたりを怖がったり、読解をたしなめられるのがイヤという人は、句会に行かないほうがいい。俳句に向いてもいないと思う(俳句の場合ネ。短歌は知らない)。別の遊びを探すほうがいい。
そんなことより、ここで示された《作者主義/読者主義/いいね主義》という三元(trialism)の設定が鋭く、簡潔・明快。
でね、いちおう私の立場を示すと、きほん、作品主義。
「一読してすぐ「いいね」を押せる」ものがいいとは、句会という即断を迫られる場においても思わないし(お笑いネタと同列に扱わない)、「一つの単語から連想をひろげ、(作者の意図をはずれた)自由な読みを披露する」ようなことは、「自宅でひとりでやっててください」と思う(だから、例えば「BL読み」に対しては、つまらない冗談を聞いているような態度でしかいられない。「BL俳句」は作者がやりたいのだろうから当然ながら認め、句ごとに反応する)。
作品主義は作者主義に近い(この見解にもまあまあ近い)。
作品主義が作者主義とどう違うかというと、ちょっと微妙かつ観念的・空想的になるけれど、「テキストから「作者がやりたかったであろうこと」を推測する」のではなく、「作品がこうありたいと思うところ/こうあるところ(実現)」に目を向ける。
作品の実現したものは、作者の意図から遠くてもかまわない(作者主義とは異なる)。かといって、読者たる自分の欲望の受け皿にはしない(読者主義とは異なる)。
句(作品)はいわば言語的事実。それは(ちょっと飛躍するようだが)社会的事実/世界の現実と変わらない。(なかば喩えになってしまうが)社会/世界は私(読者)が欲する姿をしてくれるわけではないし、社会/世界の事実を個人的/集合的に作り上げる行為者の意図どおりでもない。
なお、作品主義の態度は、つねに読者たる私の「解脱」を要求するところがあって、自省が必須。同時に、俳句世間的〈内部知〉=作句の抽斗をいったん横に置くという態度も要る(擦り切れた読者に陥らないような努力)。
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ところで、読み手たる私は、句会において、句集などを読むにおいて、このふたつでかなり違った態度をとる。
句会は楽屋あるいはワークショップと捉えるので(句会は発表の場じゃないよ)、技術論にもなり、代替案・選択肢もときとして提示する。作者主義に近づく。
そして、大いに反省すべきことに、読者主義者さながら、句を曲解し、茶化すことがないとは言えない。たまにある。いや、もう、ほんと、ごめんなさい。
一方、連作・句集は、楽屋ではない。すでに舞台だから、悦楽・愉楽する気満々で臨む。楽しめない句は心に残さず捨て去り、愉しめる句については、その瞬間瞬間、悦楽・愉楽に身を任せ、ときに悦楽・愉楽の謎に思いをいたらせたりする(レビューを書くときは後者を増幅させ、文章化に努める)。
句会で読むときと、連作や句集を読むときは、まったく異なる態度になるわけですよ、ダンナ。
(ダンナって誰だ?)
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