≫承前:
ひとまず、答えがほぼ出てしまったわけですが。
先日のゲンハイ青年部の勉強会でも少し話したが、俳人は読まずに「選」をするとこがある。「選」=自動的に「上から目線」になってしまう人もいる。そして、わかりやすさが「正しい」と思っている俳人は少なくない。結果、リスペクトなく「わからない」(他者の抑圧)をすることに鈍感になる(仮説)。 https://t.co/CiPZNRzkyq— hashimotosunao (@musashinohaoto) 2017年7月1日
例えば、句会。俳人諸氏にとって日常的な句会における「選」が、句と自分(読者/選者)の関係のかなりの部分を決めてしまっている側面が、たしかにあります。
でもね、「選者」である前に「読者」でありたいと、やはり願うわけです。「わかる」愉楽、「わからない」愉楽、双方を全身で浴びようとする享楽的読者。
句会は、いや、句会に限らず、俳句を読む、ということにおいては、人(作者)との関係よりも先に、まず、句(作品)との関係があるわけで、ならば、いわゆる「上から目線」、昨今の流行語で言えば「マウンティング」など、みずからのポジションにこだわる/すがる必要はない。
なお、居丈高な「わからない」アピールは、句会よりむしろ何かの賞の選考会のほうが、確率よく見物できます。ま、これは、選者>読者、な態度が求められているので、当然。
しかしながら、信用の置ける選、魅力的な選とは、「しっかりと読者」な人の選である。そう信じております。
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