2015/11/30

■今日もどこかで菅井きんの歌

台東区あたりで澱みだす空気そのとき菅井きんの爆発 10key

「葬式の花ぬすみます」さう言つて駆け出す緑魔子を目で追ふ

しかうして大場久美子のLPに冬の日のさすそんな日常


みなさん、月曜日ですよ。



■句会果つ

http://www.iwate-ginpla.net/

http://koueimarusuisan.ocnk.net/

2015/11/29

■「意地でも、どこかに行かない」

結社「澤」の詠みぶりに特徴的な、いわゆる「澤」調についての一文。
下五の短いセンテンス(池田澄子は『俳句』2013.11掲載の第59回角川俳句賞選考座談会でこれを「ダメ押し」と呼んでいる)の言い足りなさだろう。「焼きあがる」「地に伸びる」「すぐ返す」――いずれも主語や目的語が上五中七にあり、それが切れによって下五からは失われているため、欠けている感じがどこまでもついて回る。堀下翔 俳句雑誌管見「ふるさと」
「欠けている感じ」という指摘は、これまで私が思っていたこととずいぶん違います。

切れのあと、念を押す、とどまる(展開しない、離れない)を、私は逆に「充填」のような感じに思っていました。

別の見方が示されると、新鮮。



「アンチ二物衝撃」のようにも思っていましたよ。

意地でも、どこかに行かない。

「どこか」というのは、次の場面、照応される季語/事物、詩的ファンタジー(幻化の処理)など。

そういう態度が「澤」調と。



(で、記事内容とは無関係に、エノケン)




2015/11/28

【句集をつくる】第5回 予算の話


前回の値段の話の話に続いて、今回は予算の話です。

これ、だいじ。句集の99.99%は自費出版なわけで、句集を出そうというなら、予算を考えないといけません。

たくさんの俳人・俳句愛好者が句集を自費出版されていますが、その費用はずいぶん幅があるようです。本の体裁にもよりますが、同じような体裁でも費用は大きく違うようです。

で、早速、結論ですが、お店でチャーハンを2000杯食べられるくらいを目安にしようと思います。理由は、前回、『けむり』が郵送代込みでそれくらいで出来たから。

なお、これは、冷静に考えて、けっこうな金額です。道楽としてはずいぶん贅沢。

俳句はふだんオカネがまったくかかりません。紙と鉛筆さえあれば遊べる。必要な書籍も少ない。歳時記あるいは季寄せくらいは必要ですが、あとはそれほど要らない。他人様の句集は贈呈されることもありますし、買うのがツラいというなら、図書館で読む手もある。

俳句は貧しい者の味方だと、書いたことがあります(≫spica 掲載「虫の生活」より)。ただし、それは、句集を出そうなどとは思わないかぎりにおいて、という話です。

句集には、その面での覚悟が入りますね、じつに。

「そんなムダな酔狂にチャーハン2000杯ぶんのオカネをかけるなんて!」というのが常識的な考え方でしょう。でも、だからこそ酔狂、とも言えます。

それに、です。初回に書いたように、オカネがなくて(惜しくて)出せないなら、つくるだけつくって、出さなければいいのです。「句集をつくる」と「句集を出す」は別物。それに、ほとんど費用のかからない方法もあります(PDFを知人に送る、ネット上に公開する、プリントアウトした紙をホチキスで止める、等々)。ただ、まあ、今回は、上記の予算で行くことにします。








■追悼アラン・トゥーサン

アラン・トゥーサンが亡くなった(11月10日)ことを知ったのはずいぶんあと。享年77、ですか。

最初に聴いたのは「Southern Nights」(1975年)だから、いわゆる「にわか」の部類。当時、細野晴臣のトロピカルっぽいアルバムが相次いで発売。その元ネタが、なあんだ、「Southern Night」じゃないか、と思ったものですが、調べてみると、「トロピカル・ダンディー」が1975年、「泰安洋行」が1976年と、ほぼ同時。進んでいたんですね、先端だったんですね、細野晴臣。と、まあ、別のことも思い出したりしましたよ。






この正統派ラヴソング(1978年)も好き。サザン・ナイツから3年後は、南部テイストが抜け、がらりと当時のメインストリーム洗練(ジェフ・ポーカロ、チャック・レイニー、リチャード・ティー、ラリー・カールトンなどがバック)。いわゆるマーケティングされたアルバムだったですね。

2015/11/27

■カレンダーから絵葉書へ

カレンダーとして使い終わると、切り離して絵葉書に。

雪我狂流さんのベトナム土産は、いろいろと素敵です。




■東京の表層

表面主義俳句は、深入りを拒絶する。

深さ・厚さではなく、浅さ・薄さ。膜の上に、みごとにとどまる句。

表面主義俳句は、読み手の中に蓄積されたドラマ群を参照させない。

あるとすれば、一秒先に見る一枚の(厚さを持たぬ)ドラマ。

表面主義俳句は、見ることのできない内面(感情、思想、個人史に縛られた私)に埋もることを拒絶する。「見た目」という表面にまで高められた句。

表面主義俳句は、描写や伝達や感興やあらゆるものの〔結果〕ではない。それは〔契機〕である。

  東京の美しき米屋がともだち  阿部完市

表面主義俳句は、意味から逃れる。言い換えれば、意味が、ない。

  東京を歩いてメリークリスマス  今井杏太郎



2015/11/26

■おそるべき大阪

とりどりの滴になって心斎橋  竹井紫乙

火と水を噴いて大阪歩きます  同

……。

どんなとこなんですか! 大阪って!


なお、句集全体が大阪なわけではありません。おもしろい句集です。



竹井紫乙句集『白百合亭日常』(2015年9月25日/あざみエージェント)の詳細はこちら↓
http://azamiagent.com/modules/myalbum/photo.php?lid=41&cid=1

2015/11/25

【句集をつくる】第4回 値段の話


ええっと、今回は値段の話。

一般に句集の頒価、2800円かその前後が多いようですね。これ、ページ数(多くは200頁を切る)や造本などからすると、とんでもない値段です。一般書籍で200頁程度だと(新書の体裁は別にして)1200円から高くても1500円程度でしょうか。

句集がなぜこんなに高いのか。

謎です。

以前はいろいろ類推しました。自費出版の制作費(版元に支払うオカネ)、例えば140万円を発行部数(例えば500部)で割って2800円、とも考えました。ぜんぶ手売りすればトントンという計算。ですが、制作費はケースによって幅があります。

わかりません。

結局、そういう習わし、と考えるしかないのかもしれません。

なにか確たる理由があるのかもしれません(ご存じの方、いらっしゃたら教えてください)。

「自費出版だからいくら高い金額をつけてもいいじゃないか」という声もありましょうが、一般書籍につきまとう版元の損益リスクはないのだから、採算を度外視して安くもできる(極端な話、100円でも500円でもいいのです。謹呈が多くを占めるのであれば、いっそのこと)。

ところが2800円、ないしはその前後、です。

謎ですね。

あ、言っておきますが、2800円はダメ、とか、「高価」を批判しているわけではないのです。

こういうものって、著者(自費出版をする人)が決められるものではない、というケースもあるでしょう(ナントカ叢書ってなシリーズとか)。自分で決めるものではない、と思い込んでいる人もいそうです(自分が費用をぜんぶ負担する自費出版であるにもかかわらず)。

それに、きほん、値段も含めて、著者それぞれが、あるいは版元それぞれが決めればいいことです。それに文句をつけるつもりは毛頭ありません。

ただ、2800円という破格の(異常な)定価をつけつつ、「広く多くの人に読んでほしい」とのたまう、そういうムジュンには、やはりちょっと首を傾げます。

贈呈以外のところで、思ってもみない読者に出会う(それが「広く」という意味のひとつ)ためには、常識的な頒価がよろしいです。


で、どうしましょう?

出来てもいない句集の値段を、この時点でうんぬんするのもへんな話ですが(もともと順序どおりではありません、この「句集をつくる」シリーズ)、頒価は1300~1500円くらいかな? 次に出す句集は。自分の知らないところで読者に出会ってほしいので。『けむり」は幸運にもそういう出会いがいくばくかあったようなので、チャンスはだいじにしたい。

ちなみに『けむり』は1800円。ちょっと高すぎたと反省。当時、既存の句集群の高価にちょっと気を遣ったところもある(意外に弱気です)。人名句集『チャーリーさん』は私家版・非売品(実質タダ)でした(PDFによる増補改訂版も現在無料)。「こんなものでオカネを頂戴するなんて滅相もない」ということもあるし、こんな酔狂(バカとも言う)にふさわしいのは「プラスレス」。そういう気分もありました。

その意味では、次の句集は、酔狂(バカとも言う)に1000円以上のお代を頂戴しようというのですから、自分でもちょっとドキドキしてしまいます。

なお、ディストリビューション(流通・頒布)の問題も、価格と密接に存在するわけですが、これについては、まだノー・アイデア。おいおい考えていきましょう。


というわけで、句集づくりを元気に、のんびり進めてまいります。ジミ・ヘンドリクスでも聴いて、盛り上がりつつ。





2015/11/24

■十一月の南房総

花の谷クリニックの11月のコンサートはこのところ恒例。嫁はんは伴奏、私は運転手。

食堂。昼間ここでコンサート。

運転手にはアイドルタイムがふんだん。ひとり散歩をたくさんします。


夕食のあと、軽く、近くのレストラン。猫がたくさんくつろいでいて、われわれ人間もとても居心地がいい。


2015/11/21

【再掲】くにたち句会〔11月〕のお知らせ

2015年1129日(14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:キャットフィッシュ
(場所が第一報=ロージナ茶房から変更になりました)

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。


2015/11/20

■発句と俳諧味 福田若之宣言のこと

福田式発句論の記事2本(ウラハイ掲載)。

もう一度、「発句」と言いはじめるために

なぜ、もう一度、「発句」と言いはじめることを考えるのか

2行にまとめると、

句は、他の句とつながってるよ。

俳諧味しばり、じゃなくていい。



異論はありません。というか、含蓄および刺激的。



2本目は「念の為に言っとくけど」といった位置付けと思しいが、心配に及ばない。現在の俳句世間においては、俳諧味は幅を利かせていないので。

ざっくりいえば、俳諧味と文学性が対照され、後者が優遇されている感が強い。

で、このふたつ、どちらも、アリでいい。「俳句」はなんでもアリ。「俳句」は寛容。
「俳句」という言い方には一つの価値判断がすでに織り込まれている。そう考えると、バルバロイになってしまうかもという懸念は当然あるけれど、あえて「発句」と言いはじめてみたいという気持ちが湧いてくる;そのほうが、なんだか自由になれる気がする。福田若之
この部分は、俳諧味ばかりを重視する必要はない、という脈絡にありますが、逆に、俳諧味を(現在のように)軽視する必要もない。そのほうがさらに自由、と、私などは思うですよ。

ただ、「俳諧味」というもの、幅広く多義的。その難しさはありますけれど。

2015/11/19

■一周忌の柿

『里』2015年9月号(2015年10月23日)より。

柿切つて崖あらはるる一周忌  黒岩徳将

「もいで」ではないので、柿の木を切ったと解しました。

亡くなった人の家を、親しい人が整理する。柿の木をそのように限定して読みましたが、そうでなく、どこかにあった木、と読む人もいるでしょう。

無住となった家は、すぐには片付かず、1年くらいは知らぬ間に経ってしまいます。

先立った人への哀悼・愛惜の気持ちも強く感じる句。




■勝手に組句:毛皮夫人と鰤旦那

オカリナを吹きをり夜の毛皮夫人  中嶋憲武

服の上にどてらをつけて鰤旦那  八田木枯

タイトル「毛皮夫人と鰤旦那」をやりたかっただけです。

「お金持ち俳句」というジャンルにも見えますが、ちょっと違うような気もします。



2015/11/18

■御座候が世界一(回転焼部門)おいしい件




カロリー制限を続けている者としては、目の毒です。


2015/11/17

■スズメの国・ハマグリの星 岡田一実句集『小鳥』の一句

晩秋の季語「雀蛤となる」は七十二候のひとつ(詳しくはググれ)。古い中国由来。句になるときは、二物衝撃的に、関連が濃くなり過ぎないように、あるいは伝奇的なモチーフと結びつけるなどを、よく目にする。スズメやハマグリの形象がキュートだし、言葉遊び的に楽しい季語でもあります。

そんななか、これ。

雀蛤となつて夕餉の良い匂い  岡田一実

蛤のお椀が連想され、「食べちゃうんだー!」と、ちょっとびっくりする。この季語の処理としては、かなり新鮮、というか異例。素っ頓狂な味もある。おもしろいですね。

(「て」のうしろの切れを深い切れと解し、ハマグリと夕餉を結び付けない読み方もあるにはありますが、意味で関連するなら関連させて読む、というのが私の基本的スタンス)


ところで、季語の「本意」がどうのこうの、というのは、句を評するときのなかばクリシェ。したり顔で口にされることも多い。本意などどうでもいい、とはまったく思わないけれど、本意を了解したうえで、季語を遊ぶ態度も、俳句の楽しみ。そう考えているので、雀が大海に入り、蛤となって、水揚げされ、そして作者の食卓にのぼった、という事態もまた、おおいにアリなのです。

掲句は岡田一実句集『小鳥』(復刻2015年11月1日/マルコボ.コム)より。


2015/11/16

■なんとなく菅井きんの歌

戦争はいやだいやだと泣きながら走れば菅井きんにぶつかる 10key

全身に水森亜土のイラストを纏ひて南カリフォルニアへ

恋人がある日おでんに見えてくるピカソ的にはそれで合つてる


みなさん、月曜日ですね。


2015/11/15

【句集をつくる】第3回 前とは違うものを

≫第2回 散歩のように
≫第1回 思いつく→始まる

過日、お名前は存じ上げていてようやくご挨拶の叶った佳人に拙句集『けむり』をお送りしたところ(雑談でその話になったのだ)、その礼状に「封を開けて取り出したブツから、けむりの匂い」とある。残部を置いてある部屋が私が喫煙する部屋でもあって、長年燻された結果、ページに煙の匂いが染み込んでしまったのだ。もう遅いかもしれないが、残部少量となったこの句集の保管場所を別の部屋に移すことにする。


というわけで、今回の句集企画の一手順として、前の句集(2011年)との関係を考えることにします。

まず頻度

前句集からあまり時間を隔てないで出すと、「えらいポコポコとたくさん句集を出す人だなあ」という印象を免れない。実際、そのパターン、ある。

では、どのくらい開ければいいのか。八田木枯さんはご自分の句集の間隔を「5年」とおっしゃっていた。調べてみると、年齢が行ってから初期の句を集めた『汗馬楽鈔』から最後の句集『鏡騒』まで1988年、1995年(2点)、1998年、2004年、2010年。22年間で6点。だいたいそのペースになっている。木枯さんを参考にするのはおこがましいが、5年経てば、次の句集を考えていい。それが目安になる。来年2016年以降なら、『けむり』から5年以上を経過することになり、まあ、それならいいか、と。

次に内容

これ、結論を言ってしまうと、前の句集『けむり』とはまったく違った感じにしたい。別に理由はない。強いて言うなら、「せっかく別の本なんだから」。

では、どう変えるか。

作る俳句は、そうそうがらりと変えられるものでもない。だから、「本のかたち」を変えることになる。

1 造本・装幀

『けむり』の造本・装幀は、こんなかんじ(↓)。見たことない人のために。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiMhrkaBtRvlEzw00MC5hWuc1WSvowmD30GZZI9pdPh3bI8FwH9Zn0jC6k13hH-ptyJY7_zvUhh7FLYxjEb9DkxleoaxX9OCiqTqXxpROUFFn-fmS1k4yp9vBzs95hIpxrnXN9awCUk31k/s1600/kemuri02.jpg

かなり変則的。表紙がなく、中身を剝き出しにして、大きめの帯を巻いた。

変わった造本だったから、次の句集は「ふつう」な感じ、標準的なものにする、という手もあるが、そうではなく、『けむり』とは違う路線で変則的なもの。それがどんなものか、

ただ、具体的な部分はまだまったく固まっていない。それに、中身(句)が先で、そこから造本・装幀を考える、というのが筋というもの。

2 どんな句群?

『けむり』は、ある程度のトーンを決めて、句を拾い、そこにヘンなものを混ぜていった。なぜそうしたのか、いくつか理由があるが、割愛)。

今回は、前回なら拾わなかったような句を混ぜることにする。『けむり』に入れなかった句を入れることもあるはず。簡単にいえば、前回よりも暴れた感じ、傾いた感じ、バカな感じが出せれば、成功。

3 句数

『けむり』は300句強。標準か、それより少し多い。ここから大きく変えるとなると、半分以下(150句以下)か、倍以上(600句以上)。

2を理由に、後者を選択。

句がたくさん要るなあ。まだ拾ってもいないし、数えていないけれど、だいぶ足りなさそう。

4 構成

『けむり』は4章立てで、各章の中で季節順(ただし、春や新年から始まるとは限らない。例えば第1章はたしか夏に始まり春に終わる)。これはごく一般的で標準的な構成。

次の句集は、そこから大きく変える。いま考えているのは、5句から数十句単位の連作の集合にするスタイル。


以上、ざっくりだけれど、これでも自分の中ではだいぶイメージが固まってきている。


こういうふわっとしたことをあれこれ考えるのは、日曜日向きですね。

なんにもで言えることですが、プランを頭の中であれこれ練ったり捏ねたりしているうちが楽しい。出来上がったときよりも、まだかたちにならないプランの段階のほうが楽しいですよね。

誰彼となく、勧めてしまいそうです。「句集作りは楽しいよ! なに、出さなくてもいいんです。作っていくのが楽しいんだから」

(次回に続く)


イメージ映像。こんなふうな具体的な作業までは、
まだだいぶ時間がかかりそう。









■copycat

…という語は、これとは違う意味ですが。

ムクという名です(♀)。乗るのが好きな猫。冷蔵庫の上とか、何にでもいろいろ。

猫関係に疲れているのかもしれません。高いところに居たがるというのは。



2015/11/14

■電車の音 西村小市句集『乱雑な部屋』の一句

高架ゆく電車の音や花筏  西村小市

都会ではよく見る景。

視線は花筏に。したがって「音」なわけです。


掲句は西村小市句集『乱雑な部屋』(2015年11月1日/マルコボ.コム)


あとがきに「好きな本」として、バロン吉元『柔侠伝』が挙げられています。私も大好き。『昭和柔侠伝』『現代柔侠伝』も併せて。



2015/11/13

■勝手にデュエット 吉田戦車



人名句集『チャーリーさん』(2005年1月/私家版)。
ご本人の肉筆イラスト。宝物。


■ザ・スパイダースでいちばんは



昨晩、AMラジオで小西康陽がスパイダースの「結成50周年記念」特集。たくさん曲が流れて、甲州街道を走りながらほんと楽しい時間を過ごしました。へえ、こんなR&Bもやってたんですねえ、とか、いろいろ。

そんななかザ・スパイダースの「いちばん」はコレ。「あの時君は若かった」。多くのファンの意見が一致するだろう曲です。前奏(素晴らしい!)から鳴りっぱなしの12弦ギターの「あのとき」性。あまくせつなく、そして明るいです。


ついでに、当時(1975年)としてはおそろしく洗練されたバックトラックのコレも。



付言するに、「あの時~」は1968年。たった7年で、これだけの変わりよう、というか進歩、というか、音がまるで違う。1970年前後に、何かとんでもないことが起きたのかもしれません(スパイダースだけの話ではなく世界的に)。

この曲、演奏はタワー・オヴ・パワー。だからカッコいいのは当たり前なのですが、それにしてもね。1975年といえば、「Urban Renewal」の直後。そのアルバムからも1曲。

2015/11/12

■あをぞら 『オルガン』第3号の一句

逝く人へ秋晴そびえ立ちにけり  生駒大祐

荼毘の煙。そういうふうに具体的に解したら、いけないのかしらん。具体・抽象どちらかに限定するのではなく、「逝く人」から煙を併せてイメージしたい。

静謐で鮮やかな景。


掲句は『オルガン』第3号(2015年11月1日)より。

2015/11/11

■東京西郊の風景

住んでるとこを訊かれて、ざっくりと「東京」と答えようものなら(訊いた人が遠方という背景から、そう答えているのだが)、23区住みの人から、ツッコミが入ること必至なので、「東京西郊」と答えています。「多摩」とか言っても伝わらないし。


新堀(にいぼり)ギターは神奈川県藤沢市が本拠だそうですが。


2015/11/10

■ヘンな句を取り上げていただくのは、とてもうれしい。

旧聞に(とんでもなく旧聞に)属しますが、在庫(以前書いて保存しておいた記事)一掃処分中につき。



https://twitter.com/anata_omaeda/status/590260089342169090

https://twitter.com/anata_omaeda/status/590492540802961409

御前田あなたさんに感謝。

こんなヘンな句ばかりつくっているわけではありませんが、「こんな句つくっている」というのはね作者にとってのバリエーションなわけです。それは、句自体の成否にかかわらず、大事だと思っています。

本線以外を捨て去り、キャリアとして凸凹のないきれいなかたちにする。そういうツルンとした作者像は、一種の洗練かもしれませんが、そのやり方は、採りません。ヘンなものも出てきてオッケー。というか、自分で大歓迎。

だからってこともあって、ヘンテコリンな句に目を注いでもらえるのは、作者としてとてもうれしい。


なお、前者は、『川柳カード』誌に「川柳」として投句し、選者・小池正博さんに選んでいただけた句。後者は「俳句」として発表した句。

川柳か俳句か。それに悩んだり考え込んだりするのはやめました。週刊俳句のこちらにも書きましたが、 どっちでもいいや、と。


【追記】

こちらも↓↓↓
https://twitter.com/ogiharahiroyuki/status/591546741557633026

有名スタープレーヤーである荻原裕幸さんに取り上げていただくと、緊張しますね。サンダル履きで草野球をやってるところを、プロ野球選手に見られているようなかんじ。


なお、この句の出所はこちら、「灰から灰へ」:『週刊俳句』第338号 2013年10月13日
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/10/10_13.html

この10句は、ヘンな句特集なのでありました。

2015/11/09

■SLEEPWALK: OSHIAGE 〔reprise〕




■菅井きんの歌ああ俳句のやうだ

スラチャイ・ジャンティマトン六本木交差点で泣くああ俳句のやうだ 10key

《烏山肛門科クリニックああ俳句のようだ 上野葉月》ありて

このごろは切字の響く西野カナふとまた霜の柱立ちけり

ode to 石田波郷

叙情いま十七文字に余りたるそこだけ菅井きんにサシカエ


みなさん、月曜日ですよ。


2015/11/08

■「うお」と「さかな」

「さかな」は、肴、酒菜。かたいことを言えば、食べものの魚に限定されるべきだろう。魚を「さかな」と読むのは、「うお」に比べて新しい習わし。

そうしたことだけでなく、俳句においては、私はきほん「うお」を使います。

「魚心」は「うおごころ」ですし、「魚河岸」は「うおがし」ですし。

人によっては、魚のことをふだん「うお」なんて言わない、「さかな」と言う、とおっしゃるでしょうが、ふだん言うから句に使う、という話ではないわけで。

句で魚を「さかな」と読ませる使い方はダメ、って話じゃないですよ。自分はそう決めている、という話。



2015/11/07

■SLEEPWALK: FUSSA




2007年10月4日 東京都福生市

■2007年11月14日午前3時12分46秒の本棚

本棚(を人に見せること)は自己顕示のもっとも歪なかたち。

この写真、なにか用途があって撮ったのか(どこかで使ったかもしれない)、そんなものはなくて自己顕示(あるいは自己愛?)の一貫に過ぎなかったのか、なにしろ8年前のことだから、忘れた。

今はこの一角も様相が変わってしまったし、手元にない本もある。それからすると、しだいに変わっていく本棚を写真に撮っておくのもおもしろいかもしれない。どうせなら30年前とか、それくらい昔の自分の本棚を見てみたい気も、ひとごとのように、する。写真が残っていないのが残念。

2015/11/06

■SLEEPWALK

(クリックすると大きくなります)



■梨をあかるく

梨剝ける手に木漏日の差すごとし  小川軽舟


梨は林檎よりもあかるい気がします。

どうしてなのだろう?

色なのか、水分なのか、嚙み心地なのか。

よくは、わかりません。


『鷹』2015年11月号より。





2015/11/05

■それどころじゃない人々

俳句世間って、はた目に「それどころじゃない人」に限って、「俳壇政治」の立ち回りに時間とエネルギーを傾ける。いったいこれはどういうことなんだろう?

……と、ずっと不思議だった。

でも、わかった。

きっと、当の本人は「それどころじゃない」と思っていないのだ。あるいは、気づいていない。そして、ひょっとしたら自分が「俳壇政治」をしているつもりじゃないのかもしれない。

合点がいって、すっきりした。



〔補足〕

ニュース記事にあきれて、こんな(↓)ツイートをしたのが、上記の「それどころじゃない」関連のきっかけ。

2015/11/04

■遠泳の後の

泳ぎきし身を横たへる木の根かな  中西夕紀

「木の根」とありますが、松の根しか思い浮かびませんよね。日本の景。ちょっとなつかしい日本の景。

掲句は『都市』2015年10月号より。


2015/11/02

■くにたち句会〔11月〕のお知らせ

2015年1129日(14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:キャットフィッシュ(場所を第一報=ロージナ茶房から変更)

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。


■とてもたくさんの菅井きんの歌

一〇〇人のトニー谷対一〇〇人の菅井きんすぐ答えは出ない  10key


みなさん、月曜日ですよ。



2015/11/01

■メール句会が400回を迎えた

九の付く日のメール句会「オクンチ」 ≫http://www3.ezbbs.net/03/0123/

400回とは! 休み休みではあるけれど続けてきて、ちょっと驚きです(当番の吾郎さんはほぼ皆勤のはず。しかも回文俳句で!)。

じつはこれ、前身としてファクス時代があって、その第1回は1998年9月19日(土)。俳句を始めて1年くらいのとき、それまでの1年間、月に1回の句会のたびに数句作ってきていたのですが、もうすこし頻度が欲しいということで、一堂に集まらなくてもいいファクスというスタイルを提案。それがここまで続いてきたというのは、感無量であります。

吾郎さんに感謝。

当時の記録は不完全ながら残っていて、3句出しのスタイルは現在と同じ。私が出した3句のうち1句は、

栗の実のかたちした菓子栗の味

脱力系?w


■十一月ですよ

きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった フラワーしげる