誌上やら句集でなくてもウェブ上でも俳句(新作)は読めます。週刊俳句には毎週掲載されているし、ほかのサイトでも。例えば、スピカでは、運営3人が毎月、月初に新作を発表するのが常になっています。ウラハイの【ネット拾読】というコーナーでやってもいいのだけれど、まあ、自分のブログのほうが、気楽でいいので。
手袋の手にあはざるをよしとして 江渡華子 「よし」より。
手にフィットしてもフィとしなくても、どっちでも良し。簡単にいえば、プラス思考? 前向き? のんき? こういう考え方は、文句なしに良いです。
死は神に捧ぐものなり志も私も詩も 野口る理 「希臘行」より。
ほんまかいな。
と。
作者ではなく、ギリシャのことかもしれないが、それならそれで、そんなこと言うとる場合か、と、EU成員ではないし世界経済にさしあたり無縁な私も思ってしまう。
こういう句は《実は神に捧ぐものなり身もミーも》などとパロディをつくりたくなりますが、それはさておき、「詩」という語を、このところ、よく俳句で目にします。社会学的に考察してみたいところです。
恋幾度セーター脱げば静電気 神野紗希 「N」より。
《花びらの一つを恋ふる静電気 石田郷子》という句がかすかに響いてきます。この句は恋の句ではないのでしょうが、「恋」の一文字で、恋の雰囲気が漂う。
掲句は、性愛にまで踏み込んだ点、セーターと静電気を詠んだ凡百の句とは一線を画しています。
「幾度」の2字3音は、疑問/感嘆のフレージングとして効果大。「恋幾度」の直後にある「切れ」に注目です。
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ウェブ上に発表された句も、これからはときどき取り上げたいと思います。
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