(無点句の作者を開ける句会もありますが、開けないでそのままそっと葬り去るのがいいと思っています)
(句会参加者の誰にも届かなくても、自分には届く、ということも、たまにはあるでしょうから、それは持って帰って、なんとでも好きにする)
最初の濾過=スクリーニングは自分ですが(句会で短冊に書いてみたものの、ダメだ、こりゃ、と捨てる等)、その次の段階は句会の互選、かもしれません。
ちなみに、SNSなどでさかんに自分の句を披瀝する人がいますが、あれは、なんだかもったいない気がします。句会等、他者(自分以外)に葬り去られるという過程を経ない、という意味で。
そっと葬りされていていたはずの句も、世界に向けて発信されてしまう。付き合いなのかなんなのか、「いいね!」とかが付いたりもするので、(よほど自選が効く人を除いて、ということはつまり、ほとんどの人は)ワケがわからないまま、句作を続けていくことになるでしょう。
2 件のコメント:
すごく同感!
句会で困る人というのは、どうしようもない句を出す人よりも、どうしようもない句を採ってしまう人だと思っています。誰にも採られなければその句はこの世に存在しなかったも同然だから、問題なし。作者はこっそり持ち帰って、ちゃっかりリメイクなんかして、次の機会を狙うこともできる。ところがどうしようもない句が間違って晴れの舞台に立たされて周囲に認知されてしまうと、これはちょっと困るわけですね。
句会=濾過装置というのは、まさにその通り。質の高い句会というのは、すなわち濾過装置が十全に機能している句会のことなのだと思います。
僕には、濾過装置をくぐらせない句を公の場にさらけ出す度胸はありません。
mfさん、こんにちは。ご無沙汰しています。
句会にはいろんな機能があって重宝します。
付言すれば、無点とは対照的に点が(たくさん)入った句でも捨てることが多々あるので、《自分という濾過装置》は、句会の前後で機能させるもののようです。
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