2020/12/04

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・前篇

この年末年始は全世界的に旅行や帰省を避けるだろうから、全国的に御節料理がたくさん売れそうだね、などと、自分ん家とは無縁の話を、今朝、嫁はんとしたのですが。

東京タワー雑煮となるまでの時間  瀬戸正洋『亀の失踪』

この句ね、俳句ではよく起こることなんだけれど、東京タワーと雑煮のあいだを切れと読むか、省略と読むか(助詞その他の省略)で、句が変わってくる。

切れと読めば、東京タワーがあって(窓の外でも頭の中でもどこでもいい)、そこで散文的な脈絡はいったん断絶して、《(餅が)雑煮となるまでの時間》というフレーズが上五と照応する。

省略と読めば、《東京タワー》が《雑煮となるまでの時間》という一句一章。事態としては異常で、かなり無理のある読み筋とする向きも多いでしょうが、俳句は(散文的に)よくわかることを目的とするものではないので、こちらの読みもナシというわけではない。

どっちで読むのがおもしろいか(広義の「おもしろい」です。為念。いちいちめんどう。私が「おもしろい」と書くときは「笑える」という意味ではないです。そういうときは「可笑しい」と書く)。

どちらの読みも同時に響く、景としてオーヴァーラップする、というのもアリ、とすれば、俳句を読むとき、たいていは読者(少なくとも私)の中でコレが起こっている。で、このとき、作者の意図なんてものはいっさい関係ないので、勝手にオーヴァーラップさせて、あるいは耳でブレンドして、愉しむわけです。

(つづく)


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