2020/12/22

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・後篇

 ≫承前

切れているのか切れていないのか、かたちのうえでは判別できないケースについて話していたのですが、後篇は自分の句を例に。

ともだちが帰つてこない冷蔵庫  10key「灰から灰へ」2013年10月13日

《~こない》と《冷蔵庫》のあいだに切れを読むか、ひとつづきで読むか。ふたとおりがあって、どちらとも決められない。

週刊俳句に載せた句なので、句評がいくつかあります。そこでは切れているか否かで読みが分かれています。

津髙里永子さんには、切って読んでただいています(≫こちら)。

柴田千晶さんは、切れているような切れていないような、中間の読み(≫こちら)。ホラーな連想/妄想。句評に読み応えがあります。

そして、鈴木茂雄さんは、切らずに読んでいらっしゃいます(≫こちら)。

作者として(自句自解になっちゃいますね)、これをつくったときのことを思い出すと、宮本佳世乃《ともだちの流れてこないプールかな》がまずあって、そのもじり。ナルニア国物語の簞笥が頭にあったので、鈴木茂雄さんの句評はそのへんの作句の端緒をお見通しというわけです。

とまあ、作者は「取り合わせ」で作ったわけではないのですが、もちろんそんな意図は読みに無関係。だいじなことは、上に挙げた読みがいずれも面白いこと。句が曖昧さをまとうことで、読み手の愛情を呼び寄せたようです。

でね、俳句において不確定は、今回の切れに限らずついてまわる。それを表現としての瑕疵・不完全ととる向きもありましょうが、そこはそれ、例のあれ、読者に向かって《開かれている》(opera aperta)ととるほうが、きっと私たちは幸せです。なんでもかんでも楽観のほうへとむりやり持っていくのも問題といえば問題でしょうが、この手のものは、曖昧さでもって他人を傷つけることも、まあ、ない。読み手に任せるという、まわりまわって、それが結論かい? といったことで話をまとめていいでしょうか?(誰に訊いてる?)

ま、ともかく、ラヴ&ピース!


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