社会が壊れかけているので(なんでも社会のせいにするなよ!)、日本語が通じても通じなくても、結果はそんなに変わらない、むしろ通じないほうが好都合だったりする(ホントかよ)。
ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む 川合大祐〔*1〕
うしろあびひうらにおいてくる瓢 田島健一〔*2〕
どちらの句も、意味了解性が薄れる/失われる一方で、口調・口吻として雄弁・多弁の勢いを得る。不思議なことではありますわな。
「岳」「壁」「瓢」といった漢字は非・意味へと辿りつけずに(表意文字だから当然)、そこだけブツとして屹立するかのようです。液状化した平仮名の連なりの中に残された建造物の残骸のごとく。
〔*1〕川合大祐句集『スロー・リバー』(2016年8月/あざみエージェント)
〔*2〕田島健一「あるいはねびめく」 週刊俳句・第487号
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/08/blog-post_91.html
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