あのう、この記事、短歌とか俳句が出てくるんですが、文芸・文学の話ではなく、社会学的なことです。
まず、この記事。
≫短歌時評155回 歌人を続ける、歌人をやめる 千葉聡
これを読んでまず思ったのは、俳句世間とちょっと違うな、ということ。「俳句を続ける/やめる」とは言うが、「俳人を続ける/やめる」という文言は聞いたことがない。もちろん管見の限り。
上記記事は、「短歌を続ける/やめる」ではなく「歌人を続ける/やめる」。
で、少し読むと、「歌人」がたんに短歌を作る人・書く人ではなく、なんからのステイタスであることがわかる。有り体にいえば「ヒエラルキー」の上位=歌人。裾野には「短歌愛好家」がいるのだろう(呼称は知らない。俳句では「俳句愛好家」の語を使う)。
この説明(↓)を読めば、そのことがもっとはっきりする。
歌人、の定義、というのはほんとにややこしい感じを生むんだけれど、私は「歌壇がプロデュースしてる存在が歌人」というのでもいいと思ってます。こういう話で意見が違う人は違うというので全然構わないんですけどね。— 正岡豊 (@haikuzara) May 10, 2020
誰でも歌人を名乗っていいわけではないらしいのです。
んんん、これはしんどい世界ですね。
俳句では、どうでしょう?
これも管見の範囲となりますが、「俳人」という呼称やカテゴリーに、それほどの価値やステイタスはないと思います。「俳人」「俳句愛好家」「俳句作家」etc、自分でしっくりくる呼称を選んでいるような感じです(呼称が必要な場合は、ですが)。
俳句にも「俳壇」とか俳句世間(社会集団)はあって、そこで自らがいかなる存在感を築けているのか、他の俳人からどう目されているのか、といったことを気にする人は少なくない。そのうえで、俳句を続けるかやめるかに悩むことはあっても、俳人を続けるとか俳人をやめるとか俳人でなくなるとか、そういうケースには立ち会ったことがない。
「歌人を続ける/やめる」と「俳句を続ける/やめる」。言い方の違いにすぎないとおっしゃる向きもあろうかと存じますが、どうもそれだけではない気がする。
ノリというか、文化が、短歌と俳句では違うのだろうと、想像するのですよ。
「俳壇」のことをよく知らないで言ってますが。
で、何が言いたいわけでもないのですが、俳句のほうが、いいかげんでふわふわしたかんじでもオッケーな感じ、それで許される土壌・風土があるような気がして、ラッキー、自分、俳句でよかったぁ、と呑気に思うわけです。
ラヴ&ピース!
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