通勤快速バターが溶けてゆく動画 八上桐子〔*1〕
朝という、意味の括り、あくまで緩い括り。そこに併置される電車とバター。
意味とは別に速度感のようなものを、主に前者が後者に作用する。
それよりも間接性が、なんだか近代、というか現代なのだろうか。すなわち、通勤という目的をサービス側が供して、駅を飛ばし飛ばしに運行するという、付加・修飾をまとった電車の間接性だとか、バターの描写ではなく、その動画という間接性だとか。
ところで、動画といえば、
流氷動画わたしの言葉ではないの 田島健一〔*2〕
を思い出すわけですが、こちらも、間接性が鍵的なような気がします。とりわけ後半は、言葉という間接から。さらに否定によって間接化される。
違いは構造か。
桐子句が併置、譬えるなら二分割画面であるに対して、流氷という具体と言葉にまつわる抽象・観念が、線的につながるかんじ。譬えるなら、カットインあるいはフェードイン。
〔*1〕『川柳ねじまき』#6(2020年1月)より。
〔*2〕田島健一『ただならぬぽ』2017年1月/ふらんす堂
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