2012/08/13

読む準備

『hotel 第2章』(no.30/2012年8月1日)という同人誌(?)を拝読。詩の作品が多いなか、柴田千晶「幽霊画」10句。

  幽霊画に描き足す赤子山うつぎ  柴田千晶

このところ話題の「怖い俳句」です。2句目の《目覚めてもまだある死体グラリオサ》も怖いといえば怖いが、ちょっと吹いてしまう可笑しさを伴う。赤ん坊、怖いです。

2句とも、植物(花)が季語。グラリオサの名は知りませんでしたが、ググってみると、ああ、これか、と。山うつぎは、馴染みがない気がしていますが、これは私の無知のせい。植物の季語を座五に据えるというのは、俳句として安定していますが、ひょっとしたらこれは俳句に慣れ親しんだ者の感覚かもしれない。そうじゃない人は、どうなのだろう、と、ふと思いました。例えば、この『hotel 第2章』に詩を寄稿している人たちにとって、「書き手の創作部分/(切れ)植物季語」という構造は、すんなり受け入れられるのか、と。

(詩にしても、「切れ」に相当する部分があるのかもしれません。意味上の不連続)



ところで、この少し前に『GANYMEDE』(vol.55/2012年8月1日)という同人誌(?)を手にする機会を得ました。こちらも詩がたくさん載っていて、そのなかに俳句のページもあります。俳句が載っている俳誌ではなく、「詩」という括りで他ジャンルと同居している文芸誌に、続けざまに出会ったわけです。

そこで、ひとつ感じたことはリテラシーということ。

具体的に言うと、自分には「詩を読むリテラシー」がないので、目で文字を追っても、ほとんど入ってこない。結果、読まない。

ジャンルの親しさの如何などにこわだることなく(いわゆる白紙状態で虚心坦懐に)、とにかく、読んでみて、どのように感じるかを重視する考え方もあるのでしょうが、どうも実際にはそうは行かず、最低限のリテラシーが必要な気がしました。

リテラシーなどというより、むしろ、読む側の「心の準備」程度のことかもしれませんが、


なお、『GANYMEDE』第55号に掲載された俳句(6氏6作品・句数はさまざま)については、また後日、書くかもしれませんが、全体に「流した感」が見えました。俳句というもの、書き手一人当たりの発表数の「ちょうどいいあんばい」というものがあるのかもしれません。

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