壜ならばすんなり秋が来てくれる 鴇田智哉(以下同)
こう「すんなり」入っていくところなど、新聞読者という広い層がきちんと意識されているなあ、と感心しました。
鴇田智哉さんの「丘にゐた」15句(朝日新聞 2012-9-11 夕刊)の話です。
「その夕刊、入手できなかった」という人も、こちらとかで全部読めます(便利です、インターネット)。
さて、2句目《水面ふたつ越えて高きにのぼりけり》は文語体。俳句プロパーの人は「高きに登る」を季語として捉えるけれど、ふだん俳句に接していない人も「高いところに」という一般的な意味で読んで、まったくもってだいじょぶな作りになっています。この2句で、広い読者層の「つかみ」はオッケー。なおかつ俳句プロパーにも「おお、どうなるんだ? この15句は」と期待させる雰囲気があります。
15句はバラエティ豊かです。《巣が蜘蛛のまはりへと波打つてゆく》《鶏頭が茎の真上に出てをりぬ》といったところは、俳句伝統が積み重ねてきた技法の集積(レガシーってやつですな)の上にきちんと乗っかった作り。「新聞読者」。朝日の夕刊の場合、300万人。これがきちんと意識されていると最初に言ったのは「伝統」部分も、今回の展示に含まれているから、というところが大きい。つまり、チャレンジングではない部分、俳句の歴史的集積とも仲良く手をつなぐぜ、という部分。それも含めた、15句のバランスの良さです。
ついでに言えば、《顔のあるところを秋の蚊に喰はる》は、伝統との折り合いよろしく、かつ21世紀的オシャレネス(いま造った造語)をも備えています。
バラエティ豊かとは、つまり、俳句をふだん読んでいない人に向かって、いろいろな手がかりが用意されている、ということです。この場合。
バランスがよいぶん、この15句、「鴇田成分」〔*1〕の含有量はそれほど多くない(まあ、鴇田さんのオールドファンからすると「並」の出来かな、と、ちょっと軽口・冗談です)。これはつまり、純度を少し犠牲にしても300万読者が優先的に意識されたのだろうと想像しています。
さて、ところで、《水澄みて自分のやうな人に会ふ》のような句は、どうでしょう? 水と来て、この中下だと、いやでもナルシスの神話を想起してしまうので、「ダメだろう! これは」と叫んでしまいますが、ちょっと冷静に考えてみれば、300万読者向けには、こういう直接的な連想を誘う句があってもいいのかな、と。そんなところまで計算に入っている! それほどまで、この15句は周到なのかもしれない、と思わされてしまいます。
この句の前に置かれた《ひとかげと九月の丘で入れかはる》は、モチーフ的には同様にやや直接的・明示的ですが、「丘」という設定がなんだか不思議さを残します。
このあたりについては、
乱父という別人格を立てて移動し続けながらの言語実験の影響は、指示機能の解体を取り込むという実験内容としてではなく、「分身」というモチーフとして作中に現れ、旧作《こゑふたつ同じこゑなる竹の秋》の「二」を己の輪郭に明確に波及させ始める。
— 関悦史さん (@Seki_Etsushi) 9月 12, 2012
…といった迫力のある分析もありますが、しかし、まあ、この手の俳句上の「実験」は、少し時間をゆったりとって見守るという態度も大切かな、と思っています。自己とか他者とかはもともと理屈っぽい世界なので、その分野の語彙と文法で評してしまうと、句の成り立ちが底割れして、そうなるとつまらなく見えてきたりします。ともかく、全体には心地良い15句だし、「おっ」と思ってくれる、センスのいいシロウトさん(不遜な言い方w 私もどっぷり俳句プロパーなのかなあ)がたくさんいるのではないでしょうか。「俳句の人は、おもしろいところへ手を伸ばしているぞ」と。
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「丘にゐた」はポップを狙った15句。喩えていえば、ふだん実験的なことをやっている暗いバンド(でも音楽の伝統を知っているし技術もあるミュージシャン)が、ちょっと聴きやすく調整したポップなチューンを、ラジオ・テレビの大メディアを通して伝える、という感じか。
いちばん残念なことは、俳句には、大きなマーケットがない。そのことだ。ここが音楽と違う。記事タイトルをせっかく「市場性」としたのに、わお! なんてこったい! という残念さです。
ほんと残念だけど、でも、数に倚むことはない。ポップは数じゃない。質なのです。「丘にゐて」15句には、愛と敬意を込めて「2012年型俳句ポップ」と名づけました。
〔*1〕
では、その「鴇田成分」とは? これにしっかりと答えるのは、まあ無理です。この場では、ほのめかしのような書き方になりますが、例えば、鴇田さんの俳句について加藤かな文さんが「ジェンガ」の喩えを使って提示した次のような把握。
その古い言葉の塔の重心を測りつつ、言葉の木片を次々と抜いていく。向こうの景色は透いて見えるのに、それでも塔は崩れない。(『俳句年鑑2009年版』)これなどはかかり言い得て妙だと思います。
私が思うに、今回の15句のなかで《鴇田成分》の含有量が多いのは《目を使ふやうに蜻蛉を使ふなり》かなあ、と。
〔補記〕
朝日新聞やその他の大新聞に俳句欄があるのは知っている。今回は鴇田さんの作品だったが、ふだんからたくさんの人がそこで発表しているはずです。広い読者層に「俳句」が届く契機はたくさんあるということです。しかしながら、ふだん俳句にあまり接していない人が読んで、俳句にまつわる予見を固定化するような作品もきっと多いと想像します。「俳句と聞いて抱くイメージがますます凝り固まる。それだとつまらない。契機は多くても、契機を生かす作品は滅多にないのだと思います。
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