カミキリムシの声は字で書くと「キイキイ」と、それほど不思議のない軋むような音ですが、実際、かなり独特の感じがあります。あれはなんなんだろうなあ、と、思いが残る声。
天牛を鳴かすや黄泉の誰のこゑ 堀本裕樹
なるほど、そうでしたか。黄泉。カミキリムシに「黄泉」という別の世の、不特定の「人」を結びつけて、読後も句の残響が長らく残るような句です。
この句の収められているのは句集『熊野曼陀羅』(2012年9月/文學の森)。302句は、明確に「連作・熊野」とはいえないようですが、ゆるやかに連作的ではあります。
全体に、イメージの《強度 intensity》が求められています。
(いやらしく=エッチに、英語も併記。「イメージの」と来ればわかるとは思いますが、「強さ」というのは人によっていろいろな意味に受け取るようなので)
《イメージの強度》とは、例えば《ニュアンス》や《あえか》とは逆、といえばわかりやすいでしょうか。《強度》が備わると、句はドラマチックになりがちで、実際、ドラマチックに仕上がった句が多く、それらがいわば真骨頂であり見せ場になっています。例えば、
向日葵の首立てとほす豪雨かな 同
ただの雨ではなく「豪雨」。しかも「とほす」。《強度》志向の好例。
で、例えば、
飛魚よつぎつぎ難破船越えよ 同
好きな句です。これも鮮烈な《イメージ》、《強度》のあるイメージですが、目の前に見た光景ではなく、目の前で見たい光景です(「越えよ」の措辞からすれば、です)。
こうした《思いの中のイメージ》とでもいうべきアプローチも、この句集の特徴でしょう。これ、実際に作者が目にしたのか想像したのか、という問題ではなく。そういう「楽屋裏の真相」的な話ではなく、読んで受け取ることとして、です。
(「見たい」とは、想像・想望とは少し違います。それは「希求」ということであり、だからこそ、イメージに《強度》が備わります)
(熊野といえば、谷口智行さんを思い出しますが、イメージの成り立ちという意味で対照的かもしれません。ざっくり言えば、熊野イメージとの遠近。また句のたたずまいの点で、堀本裕樹さん=詩、谷口智行さん=俳、という感じ)
作中主体=作者が、句の中に登場する、さらに言えば、作者が光景(自然、事象、熊野…)に感応するという作りの句が多いのも特徴です。
以上の2つの要素……1 《希求されるイメージ・志向される強度》、2 そのなかで《感応する作中主体=作者》……によって、はっきりと特徴づけれる句集であり、作家だ思いました。
また、《ことば》のハンドリングといった分野に力が注がれるより、むしろ、語や措辞は《イメージ》のために供されるもの、といった位置関係です。このあたりは俳句全般にとって微妙で重要な問題なのですが、簡単にいえば、《イメージ》の愉悦か、《ことば》の愉悦か。二分法ではなく両極。
一例を挙げれば、「路地に干す血潮のごとき唐辛子」(同)などは、《イメージ》の愉悦を求める読者には強く訴えても、《ことば》の愉悦を重んじる読者には「直截すぎる直喩」でしょう(総じて、喩・措辞は直線的な作風です)。
いずれにせよ、『熊野曼陀羅』は、《イメージ》を志向するとの覚悟がはっきり見え、句群のポジション・作者のポジションが明確です。一定の意思・一定の狙いをもって俳句をつくるという部分が、作者にとって最重要。句が、句集が発表されれば、あとは読者のマターです。
ほか、気ままに何句か。
身を暮光つらぬくや鳴く田螺あり 同
はらわたに飼ひ殺したる目高かな 同
しろがねの蛇りんりんと穴に入る 同
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