はじめにことわっておきますが、類想とか、まちがっても剽窃とかの話題ではありません。俳句というのは、類似・相同の2句が共に並び立つ可能性のある分野。可能性というのは、起こり得るという意味、そして肯定的に句の共存可能性、この2つの意味で。
さて、堀本裕樹句集『熊野曼陀羅』(2012年9月15日/文學の森)を読んでいたら、
那智の滝われ一滴のしづくなり 堀本裕樹
すぐに思い出すのが、
一滴の我一瀑を落ちにけり 相子智恵
これは『新撰21』(2010年10月/邑書林)。句が言いたいことは、似ている、というか同じだと思う。
お二人の作風は(おそらく)ずいぶん違います。それでも、このように隣り合うような2句が生まれてくるのが興味深い。生年は堀本氏が1974年、相子氏が1976年。同年代ですが、それが関係しているのか無関係なのか、よくわかりません。
ざっくりいえば、「われ」と「自然」の合一、と同時に「われ」の微小化という作用は、俳句においてしばしば起こることのようです。
野暮なことを言えば、技巧的な成功という意味では、後者のほうに分がある。とはいえ、前者の「なり」語尾の生硬さ、また「一滴」と「しづく」の重複は、傷とばかりは言えず、このへんの口調が作家性、堀本裕樹さんの作風を成り立たせているとも考えられるわけです。
ついでにいえば、この2句にある自然観・「われ」観、その表現、自分の趣味・好みの外にあるので(なんだかカッコよすぎるじゃないですか。愛嬌がない)、それほどこだわるつもりはないのですが、最初に言ったように、全体として大きく異なる作風のお二人なのに、この部分(自然と「われ」)では共通の根っこ、共通の参照(広い意味での参照)が見て取れる、というところに興味を引かれたのです。
で、その共通部分というのは、俳句というものの大きな幹の一部を成しているものかもしれません。
突然、一般的なことを言いますが、句は「点」を読むようなものです。句集はそれが「線」になる、複数の句集を読んでいくと、「面」に出会うことがある。なにかを《読むこと》は、おもしろいですね。
ついでに言えば、私たちは、俳句以外のものも読んでいるのですから、「面」が立体化する契機はつねにあるわけです。
で、話を戻せば、上に取り上げたような「われ⇔自然」観は、ヒンドゥ的とも言えるようなのですが、このへんを詳しく書くのは荷が重い。そのうち書けるかも、と、自分で楽しみにしておきます。
せっかくなので句集『熊野曼陀羅』について、近いうちにどこかに(このブログか週刊俳句)書きたいと思います。
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