以前、俳句の「取り合わせ」について、《内部知(esoteric knowledge)の最たるもの。これはこうとも、だからどう、とも、誰もうまく説明できないけれど、メンバー(俳人)間では共通認識がふんわりと存在するたぐいの》(:togetter「俳句の作り方 12音+季語?」)と書いたのですが(カッコつけて英語を併記したりして書いたのですが、これは間違っていて、内部でさえアヤシい、つまり共通の認識などないのではないと思ったりしています。
けれども、考えてみれば、内部で了解され、定式が出来上がっているなら、誰かを驚かすことは難しい。了解や定式がないからこそ、異変、突然変異、事件、事故のような語の組み合わせが現れる、それに驚き、快感を味わうのかもしれません。。
海底に巨大戦艦梅白し 利普苑るな『舵』
戦艦と梅の取り合わせに、私は快感しました。
海のものと梅の取り合わせは、金子兜太《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》が思い出されもしますが、「巨大戦艦」は大きさ・質感から言って「青鮫」とは別物です。
(梅と海は誤植になりやすい。これは冗談ではなく、事件、事故を引き起こす契機たりうると思っています)
なぜ海底の景から梅の白さへと展開されるのか? その(私にとっての)唐突さは、やはり気持ちがいい。「作者はどこかにいるんでしょうか?」といった作法上の小賢しい論点などおかまいないしに、美しい句。
なお、句集『舵』には、上掲のような乱暴に美しい句が数的に多いわけではありません。
遠浅の海の音聞き冷奴 同
といった清々しい句が多い(この句も「冷奴」が取り合わせの妙とは言えます。けれども乱暴ではない)。
ほか、気ままに何句か。
葉牡丹を並べて父の家居かな 同
竹林のうねりゆたかに燕来ぬ 同
めつむりてより凍鶴となりにけり 同
0 件のコメント:
コメントを投稿