今年の選考座談会から、自分は、平成26年の俳句界が強いられている同質性を、次のようなものだと受け取りました。これ、角川俳句賞(あるいは多くの俳句賞)とあえて限定せずに「俳句界」と言ってしまうのは、結果だけではなく、座談会の経緯やニュアンスから導き出されたということでしょうか。
◎内容がよく分かること。不明瞭でないこと。曖昧さがないこと。
◎「いいもの」「いいこと」「いい人であること」が書かれていること。
◎言い方が堅実で、隙がないこと。規範の踏み越えがないこと。
上に引いた「まとめ」は、たしかにそうだと思います。なかなかキツい強迫観念です。
でも、「俳句界」が強いられていることに、私(たち)が強いられることもない。私(たち)はもっと身勝手な読者だと思う。好きなものを読み、関心のないことにはとりあえず時間を割かないでおく、という素晴らしい身勝手さ。
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ところで、傾向がはっきり見えるのは、それに合わせて応募するという人たちには好都合。
@819tiger @Earan19970301 @yuzuko_yuzuko @mugimaki0616 (意識も何も、そもそも賞の傾向というか、趣旨を確認するのは当然の礼儀でしょう……ガン無視は賞に失礼でしょう……と今更ながら)
— かーりー (@RNJWOHK) 2014, 11月 15
横紙破りをやってくれる人はいないのでしょうかね?
いても、私たちの目に触れるところまでは行かないのかもしれません。
2 件のコメント:
上田信治さんの記事を読むと、上田さん自身は「それとは違うところを目指している」という風に読めます。
けれど上田さんの作品を読むと少なくとも私からは「難解ではなく、感じが良く、規範の踏み越えはない」ように見えます。
読解力が無いのでしょうか・・。
はい。信治さんは《だって、そういうのは、すでにじゅうぶん実現されていますからね。少なくとも、自分はそういうものを書く気はない。》と明言されていますね。
《そういうもの》と信治さんの俳句とどう違うのか。これについては答えを急がずに、じっくり考えてみたいと思います(って、逃げてるんじゃなくて)。
現時点でひとつ。「よきもの、よきこと、よき人」うんぬんは、句の感じ良さとはちょっと違うことですね、きっと。
軽々しく言えば、信治さんの句はときどき(あるいは全体に)、ヘンタイ的な脱力を見せる(と私は見ている)ので、そこは世間的な善とは一線を画するかな、と。
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