2017/12/12

■わかったふうな選評・鑑賞が行き交う句会、じつは不毛

昨日の記事は、あながち冗談ではなくて、本気。

「わかったふうに選評する・鑑賞する」という行為は句会レベルから俳人・俳句愛好者に浸透しています。句会だからそれでいいのですが、なんだかなあ、といった事態も招きます。

ある句会で、ある句を採らなかった理由を訊ねられて、「おもしろいと思ったのですが、選評をもとめられたら、うまく言えそうになかったので」と答えた人がいました。これ、一度ならず遭遇しています。

採った理由がうまく言えないから採らない? はぁ? なんじゃそりゃ。

これはもう、本末転倒も甚だしいのですが、異常行動と解されているフシはない。

かくして、ある人々のあいだでは(けっして少なくない人々のあいだでは)、わからない句、どこがおもしろいのか説明しにくい句は、「選」から外され、わかる句、いいところ・気に入った理由が説明しやすい句が選ばれることになる。

選評は、句によっては「好き」のひとことでいいと、本気で思っています。あるいは「ヘン」のひとこと

ある句に魅力を感じたとき、まずはパクリとゴクリとその句をからだに入れて、快楽することが第一で、同時にほぼすべて。

だから、うまく選評を言おうなんて考える必要はまったくないのですよ。

(わかる句・いいところを指摘しやすい句で、魅力的な句もあります。為念)

なお、選句は、あたりまえですが選がほぼすべて。どんな句を選ぶかが大事。



いろいろわかったふうな解釈・鑑賞が行き交う句会が「良い句会」とされる向きがありますが、経験上、選評や鑑賞の長い句会は、クリシェをえんえんと繰り返す人がいる句会です。「わかる句」の称揚のしかたについては、プロトコルがもう出来上がっていて(その手のプロトコルは簡単に身につきます)、句会経験の多い中堅・ベテランの多くはそれに乗っかって滔々と話す。これ、じつはぜんぜん生産的ではないです。初心者には有益と思うかもしれませんが、俳句世間の慣習を覚えるにすぎず、クリシェの積み重ねを鑑賞・批評と思い込まされるにすぎません。。

(批評は批評で真剣に取り組めばいいです。悩んだり葛藤しつつ。草の根批評運動は不要。カジュアルに、批評ごっこ=クリシェの合成物を繰り返しても無為。鑑賞の「類想」が量産されるに過ぎません)



そこで、これです。

http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2017/12/blog-post_10.html

わかる、うまく説明できる。それって、たいして重要じゃないです。

Don't think. Feel !


「わかる・わからない」についてはもうすこしダラダラ続きます。きっと。

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