読むことは、それ(作品でもテキストでも呼び方はなんでもいいのです)が在る/生起する〈そこ〉へと足を運ぶことであって、読者がいる〈ここ〉にそれが届くということではなかったりします。
届くなら、それは伝達。そうしたたぐいのことばも世の中にはたくさんあるのですが、すくなくとも、ここで言おうとする句やら作品やらテキストには、伝達という「用途」が課せられているわけではありません。
ちょっとだけ流れていけば虹二本 清水かおり
〈そこ〉に行けば見えるものがあるわけです。
(逆に言えば、〈そこ〉に行かなくても見えるものなら、読む必要もない)
ところが、読者のなかには(例えば俳句といった伝達とは程遠い分野の読者のなかにさえ)、みずからの立つ「ここ」から動けない人、動こうとしない人が多いようです。
例えば、俳句世間で、「わからない」という文言が気軽に、あるいは尊大な口調で発せられたりするのは、動こうとしないから、〈そこ〉に出かけようとしないから、だと思うのですが、どうなんでしょう。季語の本意がどうの諸品詞の用法がどうのと、みずからの知識の枠内から一歩も出ない批評や評価も、同じように、〈自分〉にとどまっているせいかもネ。
自室の窓から目だけ出して、外を眺めているような読み手は、きっと不幸。
読む愉悦は、みずからを捨てて、自室を出て、〈そこ〉に足を運んではじめて得られるものだと思うのですが。
ラヴ&ピース!
掲句は『川柳木馬』第157・158号(2018年10月)より。
1 件のコメント:
私も、俳句の評をするとき、分からない!とよく言います。
確かに、そこまで行かずに言ってた場合もあったかも!
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