2013/01/12

句会の作法

川柳の句会と俳句の句会では、方式がずいぶん違う。話には聞いていたが、昨年の一月に、川柳方式の句会を、旅館の一室で知人ばかりというプライヴェートな感じで初体験して、なるほど違うわ、と。

俳句の句会と川柳の句会:週刊「川柳時評」2013年1月11日

小池正博さんのこの記事にも書かれていますが、俳句の句会ではごく一般的な互選というものが、川柳の句会には、きほん、ない。互選がないから合評もない。川柳では、一題に一人の選者が設けられ、その人の選がすべて。

記事中、「(…)川柳に批評が発展しないのは、ふだんの句会で句を読む修練ができていないことに原因がある」とする小池さんの把握について、いまひとつ首肯できないのは、互選のある句会を数多く経験している俳句愛好者が「句を読む修練ができて」いるとは思えず、互選や合評を基盤に「批評が発展」しているとも思えないからですが、まあ、これは個人的な印象というだけ。

例えば、俳句の句会では、「選」に加えて「選評」が要求されるケースも多い。このことで、なんだかなあ、という事態も起きたりする。「選評しにくい句だから、選ばなかった」というセリフを以前、実際に聞いたことがあり、え? なんじゃそりゃ、と。一種の本末転倒。

「なんだかわからないけど、選んだよ」 という選句がないと、句会は痩せ細っていきます。

選評しやすい句への選評とは、選評パターン、鑑賞プロトコルに乗っかるということで、それは批評的な行為とは違う。習わしに従って、句会のルーティンを繰り返しているに過ぎないわけです。

選評しやすい句を選好する選句も、また、自分の中の習わしを句会で繰り返しているだけということになり、あまり「発展」はない。

ただ、そんな退屈な繰り返しの部分がいかに大きくとも、互選・合評という句会のスタイルは、参加者にとってとてもおもしろく、もし、俳句の句会で一切「互選・合評ナシ」ということになったら、自分はどうするか。おそらく句会には行かなくなるでしょう。

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上記、小池さんの記事に、古舘曹人著『句会入門』の紹介があります。孫引きになりますが、古舘の「句会作法十三か条」は…
「句会は十人以下で」「多彩なメンバーで」「句会は月二回」「句会は三時間」「投句は十句」「吟行が最上」「句会は選句の場」「互選の点数は優劣に無関係」「討論は結論を求めない」「ノン・リーダーで」「句会は自立の場」などである。
なるほど。参考になる。

(結社の句会は、この作法の念頭にはないようです)

「月二回」は、俳句のことを忘れてしまわない、俳句を身近にできる、かつ、俳句に飽きてしまわない、ちょうどいい頻度、という感じでしょうか。この部分は、自分も実現できている感じです(このところ月に1.5~2回というペースで句会に出ています)。

頻度に限らず、自分が出席している句会は、ほかの要素もだいたい満たしているようです。句会を「自立の場」にできるような成熟したメンバーにも恵まれ、ありがたいことです。

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上掲の「句会作法」においては、「自立」と「討論に結論を求めない」の2つが互いに関連する。

句会では、ポイントや論点はこうだよね、これこれこういう別の読み方、スタンスがあるよね、と問題呈示が大事。結論を出す必要はない、というか、出さないほうがいい。各自が問題を家に持って帰って、そこで結論を出すなり、将来、結論を得るなりすればいいことなのですね。「答えの面倒までは、句会は見ないよ。各自、勝手にせい」ということで、これには自立が必須。

私は結社に属していないし、出席する句会にはいろいろな結社・流派の人がいるので、そこで「結論」を出そうとしても不毛に終わる。自分とは別の見方があることを、句会で知ることこそが大事で、そこのところのシロクロを、句会の場でつけることはないのです。

(つづく、かも)

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