2017/08/16

■俳句の賞はぜったい必要、かつ関心ゼロ。

野口る理さんの連載「ほどける冠」クロイワくんの回が予想に反して(というと叱られるか?)おもしろかったので、このへんで、私が俳句の賞全般に関心ゼロである理由(前掲の記事を読んでる時点でゼロとは言えないんだけどね)を書いておいたほうがいいと思った。

以下、深慮なく、気ままに。

まず、誤解する人がいるといけないので、言っておくと、俳句の賞は、俳句にとって、俳句世間にとって必要なものです。

なんか、関心ゼロと言うと、賞全般を否定しているみたいに曲解する人がいるかもしれないが、ぜんぜん否定しない。必要なもの。でも、自分には関心がない。

そういうことって世の中にはいっぱいあるでしょう? 俳句関連では「結社」もそうかな? 自分とはいまも将来も無縁。たいして興味もない。でも否定なんてぜんぜんしない。結社も必要なもの。

で、賞の話。

関心・無関心にはふたつの局面があって、A:参加・応募、B:外から見て。

ひとつめのA。

応募/参加したことはある。結社の作品賞とか、豆の木賞とか、角川俳句賞(2回)。だいぶむかしにその手のものに出すのはやめていると思う(忘れていたら、ごめん)。理由は、個別にいろいろあるけれど、句集を出したことが大きい。

とくにオープンな賞(俳句総合誌etc)には、広く評価を問う、認められれば嬉しい(若者が最近よく使う承認欲求)、自作をまとめる楽しさ、まとめて読んでもらえる嬉しさなどの動機があるようなのですが、句集を出したら、そのへんのことは解決してしまった感。

自分の句集が「認められた」とは思わないけれど(人それぞれ好いてくれたりそうでなかったりのはず。それは受賞作も落選作も同じ)、俳句をやってて、あの時点(『けむり』は2011年)まででこんな俳句を作っていて、ああいうかたちにまとめました、ということで、気持ちが済んじゃった。

それと、承認欲求というのは、あまりよくわからなくて、世間に自分の存在を認められたい、ということかな? もしそうなら、そんなもん知ったことか、なわけです。この年齢になるまで、げんに喰ってきて、けっして多くはないだいじな人(たち)をだいじにしているつもりだし、まあまあだいじにしてもらっている。それ以外の「世間」はどうでもいい。

自分がつくる俳句に関しては、もっとどうでもよくて、まあ、おもしろがってくれている人もきっといるはず。

そう考えていくと、「承認欲求」というのは、若者のものかもしれませんね。この年齢になると、承認されなくてもされても、げんに死なずに、ここで暮らしている。しかも、たのしく。

話が長くなってまずいのですが、《どうでもよくない人たち》だけを見て、暮らしたい、俳句をやりたい、というのが、正直な心境で、《どうでもいい人たち》は、ほんと、どうでもいい、ということで、これはかなり「いけないこと」を言っています。

B。これがだいじかな。

参加せず外から見ても賞には関心がない、その理由は、(これもっぱらオープンな賞についてですが)、賞の結果が示す「良き俳句/おもしろい俳句」と、自分が思うそれが、そうとうに乖離していること。これは受賞作がダメということではなくて、自分の読みたいものを見つけるのに、賞が寄与してくれないということかもしれない。

つまり、どんな俳句が読みたいかという読者(=私)の欲求から、かなり遠く離れたところに数々の俳句賞がある、という感じ。

山口優夢が前掲連載で、《「その賞を取っていると読むに値する」と思ってもらえる》とうフレーズを口にしているが、自分の中でその指針が揺らいで崩れきってしまった。

付言すれば、高柳克弘が同連載で、《賞はいわゆる「市場」との関係性が濃くて、文学の評価基準としては明らかにおかしいような軸もしばしば入り込んできます。》と指摘する事柄も、私の無関心には関係がない。市場におもねること、政治が介入することはあたりまえ。それだから私の関心が遠のいたのではない。

それに、(これを言ったら話にならないけれど)もともと、俳句のAとB、句集AとB、どちらがいいか、といった問いの立て方に興味がない。どっちもいい、どっちもダメってことだって多々あるわけで、それでいい。

例えば、去年2016年に読んだ句集では岡野泰輔『なめらかな世界の肉』がほんとよかった。それと、例えば、このあいだ亡くなった金原まさ子さんの句集『カルナヴァル』、どっちがいい? と訊かれても、どっちもいい、どっちも好きと答えるしかない。その2つの句集に優劣を付けることに、いったいどんな意味がある? ないよね。そう考えると、どれがいちばんいいかを決める「賞」への興味はなくなっていくのでした。


AとBを総合すると(ちょっと飛躍があるよ)、俳句世間のマジョリティと親密であることは、自分が暮らすこと、俳句を愉しむことのささいな条件でさえありえない。まったくもって不要。これは年々思いが深くなった。

俳句の賞には、俳句世間的マジョリティのさまざまな部面(おもにニーズ)を集約したようなところがある。作風の潮流。承認欲求の受け皿。《読まれる》機会創出。サロンへの話題提供。

でも、それらは、自分にとって不要。であれば、関心も興味もなくなる。


で、もう一度、念のために言っておくと、私にはどうでもよくても、どうでもよくない人たちがたくさんいる以上、賞は必要です、ぜったい。

(もう1回くらい、軽く続くかも)

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