2019/06/26

■羽抜鶏にまつわるラディカルな問い 『豆の木』第23号より

羽抜鶏夜より昼の眠たくて  齋藤朝比古

夜更かししているからだろう、とか、昼寝という季語が隠れているとか、いろいろなことはあるのだけれど、昼の倦怠・懈怠は、よく伝わる。それは「夜よりも」という比較(論理)もあるにはあるけれど、「羽抜鶏」という季語(俳句的/大きく括れば詩的な作用)による。

ところで、このような読者側の快楽は、俳句というムードにまずは浸って読む、俳句という枠組みを認めて受け止めるという手順が必要だったりするわけですが(もちろん手順抜きに味わう/味わえる、のでもかまわない)、これを作品と読者の弛緩した関係、俳句の国での安住と、いくぶんネガティブに解するのか、弛緩・安住こそを、俳句(を読むこと)の始まりであり到達であるとするかは、人によるという以上に根本的な問題だったりするのかもしれません。こうと態度を決めるのではなく、揺れる、ぶれる、ということを含め。

繰り返される話題ですが、俳句的虚構の扱い。

羽抜鶏なんて、私の子供の頃の、ドいなかの農家の庭ならまだしも、あるいは、養鶏場でもいいのですが(それは興醒めでしょう)、ともかく、いまどきなかなかお目にかかれる
ものでもない。雪渓やら赤富士(ともに夏の季語)といった観光的季語よりもむしろ見る能わずな事象かもしれません。けれども、一定頻度で句に現れる。それだけ使い勝手がいいともいえるし、強力な季語ともいえそう。そのことをどう捉えるかという問題でもあるんですよね、上に書いたことは。

蛇足ですが、これは、見たことのないものを詠むな、といった愚鈍な「体験主義」とはまったく別の問題として、ね。

とりあえず、ラヴ&ピース!

掲句は『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。

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