週刊俳句・第500号に自薦記事をあげた。
対談・座談に絞ったわけですが、ここでは「句集を読む」に関連して、すこし。
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句集を読むのは愉しい。しかし、それについて何かを書くのはとても苦しい。大きな負荷を感じる。
週俳には、たくさんの「句集を読む」記事を寄稿した。どのくらいか自分でわからないくらい数多く。けれども、ほとんどは「✕✕句集の一句」というスタイル。これなら比較的書きやすい。自分のハードルが下がる。
一方、1冊まるごとをレビューした記事はとても少ない。
そのなかから、3つ、あげておきます。
■虫・石・星〔断章風に〕 喜田進次句集『進次』を読む
■後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』を読む
■榮猿丸句集『点滅』のオフビート感
3冊のうち2冊の作家はすでに鬼籍。おひとり(喜田進次)は、書いた時点ですでにこの世におられなかった(『進次』は遺句集)。知遇はなく、それまでお名前も存じ上げなかった。
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句集1冊をとりあげるのは、どんなかたちちであれ(上の3記事はぞれぞれ違うスタイルです)、私のとってたいへんな作業です。時間がかかるという意味ではありません。気持ちの負荷。
これを何十回もやってたら、死ぬな、と思うくらい。
いや、だからといって、気をつかっていただく必要はありません。とくに句集の作者諸氏に、気をつかっていただくとしたら、申し訳ない。負荷を感じるのは、私が勝手に、ということですから。
そして、ここが不思議なのですが、こんなに苦しいのに、自分からすすんで書いている。書きたいから書いている。依頼を受けたときも(もっぱら紙媒体)、同じです。発端が依頼でも、受けた以上、書きたいから書く。書きたいことを書く。
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句集について何かを書くことは、「紹介」だと思っています。レビューを読んだ人が興味を持ってくれるように書きたい。
「批評」なんて考えたことはない。たまに、批評の要素が含まれるかもしれませんが(批評を見出す人がいるかもしれませんが)、本人は批評をやる気がない。
自分に批評ができるなんて思っていない。
これは一句を取り上げるときも、一冊を取り上げるときも、同様。
ただ、句集評・句集紹介のパターンにそって俳句的言説のクリシェを並べる、というのだけは避けたいと思いつつ、やってる。
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頼まれてもいないのに、書く。週俳では、すべて、そうです。
たいそうなことが書けるわけでもない。自分の記事にあまり意味はない(「句集を読む」でいえば、紹介程度)。有意義なこと・刺激的なことを巧みに書ける人は、そのへんに(多くはないが確実に)いる。
なのに、書く。
これは不思議なことですよ。じつに。
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