2013/10/04

■オスプレイにまつわる遊びの数々~川柳と俳句のあいだ

更新されたばかりのこの記事。

夢精するオスプレイ―滋野さちの川柳:週刊「川柳時評」
http://daenizumi.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

後半に、根源的なテーマ(母、時事性・社会性、思い、わかる/わからない)が散りばめられているのですが、それはそれとして、この記事に取り上げられた《着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち》という句に関して。

この句、俳句には登場しにくい句だと思います。ただし、それは、時事的・社会的だからというよりむしろ(たしかに俳句では時事的な句・社会的な句は評価されにくい、というか忌避されるのですが、それよりむしろ)、「オスプレイ」とオス(♂)の関連(音の上での関連、いわゆる掛ける、ダジャレる)の問題だと思います。

この手の関連付けとは、積極的に遠く距離を置く、つまり遠ざけるのが、俳句の習性という気がします。

オスプレイからオス(♂)への連想は、この機種がニュースに登場して以来、お茶の間で数限りなく繰り返されてきた連想にちがいありません。それを句で繰り返すのが悪い、というのではありません。ただ、俳句では、それはやらない。

この「それはやらない」という態度は、少なくとも俳句においては、とても重要なことだと思っているのです。

つまり、固守してゆくべき習性。

(このあたりは、川柳と俳句とをかなりはっきりと分け隔てるセンスかもしれません)

「俗」や「捨て去られてゆくもの」に乗っからないという意味ではなく、そのようなかたちで乗っかることはしない、という感じでしょうか。

うまく言えないのですが、オスプレイとオス(♂)では、どうにもこうにも遊べないのです、俳句の場合。というか、そこで遊んじゃあ、俳句のコクはまず出ない、という感じかも。


あ、オスプレイを俳句で詠み込むのがダメって話じゃあないですよ。為念。

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