大井恒行「高屋窓秋とロージナ」(『現代俳句』2008年10月号)を読み、高屋窓秋や三橋敏雄が、国立駅南口のロージナ茶房をよく利用していたことを知った。ロージナ茶房なら30年以上前から知っている。若い頃はよく利用もした。
高屋窓秋や三橋敏雄は、私にとって「俳人」ではあっても、生身の人間のようには思えない。句とともに黒く印字された四つの漢字が、高屋窓秋であったり、三橋敏雄であったりする。
もちろん、彼らは人間である。喫茶店でお茶を飲んだりもしたのだろう。それでもやはり、私がよく知っているあの店のビニール張りの椅子に高屋窓秋や三橋敏雄が腰掛けていたと、そう想像しても、ほとんどピンと来ない。
「著者」「作家」は、私にとって不思議な存在だ。例えば、読者として尊敬や愛情をもって接した「著者」「作家」と実際に会う機会を得たとき、それを「うれしい」と思う人もきっといるだろうが、私の場合は、そうではないようだ。どうしていいかわからなくなる(実際、何度かそういう状態になったことがある)。挨拶くらいはできるが、それが精一杯になってしまう。
黒く印字された名前の持ち主が、肉体をもって、自分の目の前にいることの奇妙さから、なかなか抜け出すことができないのだ。これはまあ、幼児が、絵本のなかの出来事と現実の区別がつかないことと、すこし似ているかもしれない。
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2 件のコメント:
4歳になるウチの息子はウルトラマンが大好きです。
ウルトラマン・ショーへ行ったとき、受付にウルトラマンが立っていて子供達一人ずつに握手をしてくれるのですが、息子は逃げるようにして受付を通過してしまいました。
憧れていた本物のウルトラマン(笑)を前にして胸がいっぱいで、どうしていいのわからなくなってしまったようです。
天気さんの場合もそんな感じでしょうか。
私の場合、「あ、うごいてる!」(字は動かない)、「あ、色ついてる!」(字は黒)という感じでしょうかw
ダメですね。
追記
あ。七曜堂の署名では、ややこしいので、tenkiで行きます。
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