フォーク・ソング:Rocket Garden~露結の庭~孫引きになるが、「殺意に近い憎しみ」を感じながら、「努力してFM放送なんかを繰り返し聴くことがあるのですよ。井上陽水、岡林信康、その他高名なフォーク・シンガーのを。」という塚本邦雄は、ヘンな人だなあ、と思う。「くだらない」のひとことで済ませられるのに、努力して繰り返し聴くわけだから。
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私は世代的に「フォーク・ソング」を他人事では済ませられない立場にある。複雑な気分。
中学生のときの深夜ラジオ(1970年前後という大昔ですね)には、このフォーク・ソングがやたら流れていて、夜中3時を過ぎると、宵っ張りの学生もさすがにもう眠るということで、突然、トラック運転手をコア・ターゲットにした演歌番組が始まるというプログラム。
そんなだから、ある種のフォーク・ソングを好んで聴いていた時期が、短期間とはいえ、ある。白状したくないけれど、たしかにある。けれども、フォーク・ソング全般がどうかといえば、はっきりと苦手。ただし、塚本邦雄のように「言語感覚の貧しさ」がその理由ではない。理由は「音楽感覚の貧しさ」である。
音楽としての退屈、気恥ずかしくなる生硬さ、お手軽さ、そうした貧しさが詰まっている。これはフォークソング出自の「ニュー・ミュージック(新・歌謡曲)も同様。
(ちなみに、音楽を聴くときに、「言語感覚」を取り沙汰する気があまりない。音を邪魔しない程度の言語でいい、というくらい。フォーク・ソングの多くが、言葉の貧しさが、音の貧しさに輪をかけてしまうということはあるにしても)
そんなわけで「くだらない」と無視していればいい音楽ジャンルなのだが、しかし、ところが、最近になって、十代の頃、あれほど嫌いだったガロというグループの曲を聴き、たしかに「言語感覚」は語るまでもなく最貧で、「音楽感覚」も豊かとはいえないけれど、こういうのもアリに聞こえたりして、困っている。
フォーク・ソングの貧しさから解放されるわけではなく、とても複雑な気分なのだ。
4 件のコメント:
フォークソングって若者向けの演歌みたいなところがあると思うのです(日本人の一番弱い「泣き」の部分を上手に突いてくれる)。
そこへ「音楽感覚の貧しさ」(誰でも作れる、歌える)が加わって大衆化したようにも思えます。
「言語感覚の貧しさ」については、たとえば私が聴いて育った80年代のロックにも当てはまることで、言葉というものに対して何ともしがたい素人っぽさがありました(でも聴いてましたけど)。
これは今テレビに出て歌ってる人たちもたいして変わらない。ということは結局大衆が求めてるのってそういうところなのかなあと。
ちなみに「努力して繰り返し聴く」というのは私にはよくありました(ブルースとか)。
もしかしたら、俳句も「努力して」読んでるかも(泣)。
フォークソング=若者向けの演歌
なるほど。含蓄です。
ところで、歌に登場する女性が
演歌:クロウト
フォークソング:シロウト
…という対照はありますね。
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>80年代のロック
日本語ロック? 英語ロック?
この時期以降、ロックらしいロックを聴かなくなった(聴いていたのはざっくり言ってスティングやU2以前まで)ので、疎いです。
80年代が青春だった世代は、いわゆるサブカルチャーの脈絡にロック音楽があったと想像しています。
忌野清志郎が亡くなったとき、40代の人たちの反応は、私たち50代とすいぶん違った。80年代をどんな年齢で過ごしたかで、かなり違うな、と。
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話が逸れました。フォークソングに戻すと、やはり音より「言語感覚」、それから抒情の湿度かなあ、と思います。
いまのラップと呼ばれるもの(日本語)も、こりゃフォークソングだなと思うもが多いです(抒情の湿度という点で)。
日本ってやっぱり湿度が高いから、ですかねw
日本語ロックです。
鮎川誠とかモッズとかハウンド・ドッグとか。「意味無いよなあ。」、「詰めが甘いよなあ。」なんて思いながら聴いてました(笑)。
遠藤ミチロウの歌詞は面白かったけど。
>いまのラップと呼ばれるもの(日本語)も、こりゃフォークソングだなと思うもが多いです(抒情の湿度という点で)。
これは全部ブルーハーツの所為だと思ってます、個人的に。
ブルーハーツが出てからロックが全部、青春賛歌になっちゃた。
日本人は湿度がないと生きていけないんでしょうね。
あ、ブルーハーツ。
ほとんど聴いたことはないのですが、「どぶ鼠のように美しくなりたい」って文句(これしか知らない)は、オジサンだって泣きましたよ。
歌詞がシンプルなら、それはロック!と言って、言えないことはない。
ところが、饒舌で湿ってるのがあって、どうにもこうにも、水道管だだ洩れって感じがしてしまうのです。
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