2014/06/18

■ただごとではない

母親と握手したことは、あるだろうか? 私は、ない。


したことのある人は手を挙げて。

(手が挙がらない)



母と握手ふつうの握手かたつむり  宮崎斗士

しかも「ふつうの握手」ですよ。

で、なぜか、かたつむり。

 

この句にある「ただごとではない」感。その組成とは、まずもって、母と握手するという「なぜに?」感、背景や事情の不思議さであり、「ふつうの」という念押しの反転的な働きであり(特別な握手ならともかく、ふつうの握手をするなんて、どう考えてもふつうじゃない!)、「かたつむり」という季語への展開(もしくは俳句でいわれるところの取り合わせ、斡旋)。それらすべてが、なんとも微妙な不思議をもって並んでいる。

俳句というのは、だいたいは季語というものがどこかに入る。季語がその一句においてどのように働くかは句によってさまざま。

かたつむりはご承知のとおり、夏の季語。この句の場合、上五・中七で述べられていること(母とふつうの握手をしたこと)に単に季節の限定を加えるということであれば、まあ、淡々と読める。それはかたつむりの出る季節、すなわち夏だったのだ。

けれども、「かたつむり」とある以上、かたつむりが登場してくる。

まさか握手した手の上をかたつむりが這う、なんてことではないだろうから、 握手している二人のかたわらか? かたつむりが樹上から母子の握手を見下ろしているようも見える。それはすんなり読者に了解できるようでいて、よく考えると、なんだか奇妙な状況だ。

いったいこの「かたつむり」は何なのだ?と考え始めると、何が何だかわからず、アタマがかたつむりになってしまいそうなのです。



 

掲句は宮崎斗士句集『そんな青』(2014年6月/六花書林)より。ほか、気ままに何句か。

すーっと春わが洗面器わが水面

《秋の蛇書棚一列さーっと見る》《鮫すーっと動いてたっぷりの夜かな》など、「ーっと」というオノマトペは、この句集(この作者)の特徴でしょうか(あまり見かけないですよね)。


寒鯉やどこかもやもやした脱稿

この寒鯉も不思議な季語の置かれ方です。

サンバ止む隣りに羽抜鶏一羽

飄逸。

治虫忌や抜歯のあとの青い空

…は切なくノスタルジック。



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