この句、「の」は要りませんね。
ほんとうはこういうことこそが大事なのですが、話題になっているのは、そういうことではありません。
公民館だよりの俳句コーナーへの掲載を拒否されたという話。新聞記事によると、「世論が大きく二つに分かれる問題で、一方の意見だけ載せられない」というのが公民館側の説明だそうです。
意見? この句がある特定の意見を表明しているというのは、奇異な感じです。
「九条守れ」の女性デモをこの作者は「見た」。それだけの句です。ふだん俳句を読んでいる者からすると、ここに意見を見出すのは無理がある。この句は「九条を守れ」とも「改憲せよ」とも言っていない。
例えば、句会でこの句があったとして、九条への反対・賛成、反戦・好戦という、「意見」の側面が話題にのぼることはないでしょう。前述の「の」のことや、「に」でいいのかどうかを検討したり、梅雨空とカギ括弧の内容でデモとわかるから、下五の「デモ」の2音は重複(ムダ)だろうとか、そういう話にはなっても、、政治信条等の話にはなりません。
「九条守れ」といった政治的なフレーズが句にあったとして、そこに特定の「意見」を読み取れた気になっても、それは読者の勝手な読みであることが多い。
とはいえ、政治的なモチーフは、オートマチックに「意見」「信条」の如何へと、読みが向かってしまうのも事実なので、このへんは厄介です。
●
一般に、意見をストレートなかたちで俳句に盛り込むのは、難しい。不可能ではありませんが、俳句は、そういうことに向いていない。標語・スローガンに季語をくっつけたものなら、その限りではありませんが。
それに、です、字面どおりに意見・信条を読み取っていいものかどうか。そのへんはぞんがい難しい。
俳句は(さらには、ことばは)、幸か不幸か、そんなに単純なものではないようなのです。
戦争はぜつたいあかん水羊羹 10key
2014/07/31
2014/07/30
2014/07/29
■愛と誠と岩清水
台密や
『愛と誠』
が
十二冊
正岡豊
天台密教と『愛と誠』。岩清水(夏)が隠れ季語。ってことはないでしょうが、おもしろいです。「巻」じゃなくて「冊」というカジュアルな言い方も味があります。
(なぜ改行かは、わかりません)
神戸の短歌イベントに出かけた際に、歌人の正岡さんと初めてお会いし、挨拶をさせていただいた。そのとき、手渡されたA4判の紙片1枚。「さいぼうまくしんぶん 怒濤の号外号」とあり(細胞膜新聞? ううむ、良いネーミングです)、詩、俳句6句、編集後記まで揃っています。個人誌です。掲句はここにある一句。
紙1枚だからビラかチラシを配るように手渡せる。「号外」だから手渡しなのですね。渡されるこちらは「え?」と思う間もなく、手に、この個人誌が。
身軽です。
●
『愛と誠』
が
十二冊
正岡豊
天台密教と『愛と誠』。岩清水(夏)が隠れ季語。ってことはないでしょうが、おもしろいです。「巻」じゃなくて「冊」というカジュアルな言い方も味があります。
(なぜ改行かは、わかりません)
神戸の短歌イベントに出かけた際に、歌人の正岡さんと初めてお会いし、挨拶をさせていただいた。そのとき、手渡されたA4判の紙片1枚。「さいぼうまくしんぶん 怒濤の号外号」とあり(細胞膜新聞? ううむ、良いネーミングです)、詩、俳句6句、編集後記まで揃っています。個人誌です。掲句はここにある一句。
紙1枚だからビラかチラシを配るように手渡せる。「号外」だから手渡しなのですね。渡されるこちらは「え?」と思う間もなく、手に、この個人誌が。
身軽です。
●
2014/07/28
■他人のなかの自分像
福田若之の句でよく目にするのは。
…あたりだろう。
どちらも人気が高い。この2句だけ見ると、「海程」あたりのライトヴァース作家(こしのゆみこさんが代表格?)の系統と受け取られかねない。そこに「青春性の横溢」(≫http://misimisi2.blogspot.jp/2012/01/blog-post_09.html) をプラスした感?
あるいは、
文化流行としての「セカイ系」の俳句的発現。例示に向いている。「ゼロ年代」だとか「テン年代」だとか、「それって単に製造年月日の話なんでしょうか? 句の内容やスタイルはどうでもよろしいのでしょうか?」な「文芸評論」に、稀有な好例として寄与する一句。
ただ、作り上げられつつあるみずからの「作家像」に抗したくなるのも、この人の特徴のようです。
「小岱シオンの限りない増殖」:週刊俳句・第379号(2014年7月27日)
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/10_91.html
他人のなかの自分を、「そうじゃないとこもあるんですけどー?」と崩していくのは、とてもいいことだと思う。
まあ、「青春性」はまだとうぶん残しつつ、のようではありますが。
いろいろな福田くんを、たくさん読んでみたいという読者がすでにいるだろうし、これからも増えるだろう。
●
それにしても、小岱シオンと名づけられた言語的事象、またの名を虚構は、よく出来ていて、楽しめた。《彼女》は、どこにもいないこと(非在)によって、どこにもいる(遍在)。このシンプルな仕掛け(例えば、神)は、初音ミクも連想させる。
〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
春はすぐそこだけどパスワードが違う 同
…あたりだろう。
どちらも人気が高い。この2句だけ見ると、「海程」あたりのライトヴァース作家(こしのゆみこさんが代表格?)の系統と受け取られかねない。そこに「青春性の横溢」(≫http://misimisi2.blogspot.jp/2012/01/blog-post_09.html) をプラスした感?
あるいは、
君はセカイの外へ帰省し無色の街 同
文化流行としての「セカイ系」の俳句的発現。例示に向いている。「ゼロ年代」だとか「テン年代」だとか、「それって単に製造年月日の話なんでしょうか? 句の内容やスタイルはどうでもよろしいのでしょうか?」な「文芸評論」に、稀有な好例として寄与する一句。
ただ、作り上げられつつあるみずからの「作家像」に抗したくなるのも、この人の特徴のようです。
「小岱シオンの限りない増殖」:週刊俳句・第379号(2014年7月27日)
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/10_91.html
他人のなかの自分を、「そうじゃないとこもあるんですけどー?」と崩していくのは、とてもいいことだと思う。
「このあいだ知り合った人から、今何してる? ってメール来て、めんどくさかったから、細胞分裂、って返したら、なんか話が続いちゃって」
鏡にぶつかる小岱シオンと玉虫と 同
まあ、「青春性」はまだとうぶん残しつつ、のようではありますが。
いろいろな福田くんを、たくさん読んでみたいという読者がすでにいるだろうし、これからも増えるだろう。
●
それにしても、小岱シオンと名づけられた言語的事象、またの名を虚構は、よく出来ていて、楽しめた。《彼女》は、どこにもいないこと(非在)によって、どこにもいる(遍在)。このシンプルな仕掛け(例えば、神)は、初音ミクも連想させる。
〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より
2014/07/27
■「あれ?」という感覚
柳本々々(やぎもともともと)さんに『けむり』の一句について書いていただいています。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9921.html
このペンネーム、かなりステキじゃないですか。というか、意表つかれますよ。「本々々」。
で、これ(というのは、句集に触れていただいたこと)は、たいへんありがたく、また、自分のまったくうかがい知れぬところで、この句集が読者に出会っているという点で、驚いてもいます(句集の読者可能性は、悲しいことに贈呈先の範囲をはみ出して広がるることがあまりない)。
ご自身のブログでも、記事を紹介されているのですが…
≫http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-148.html
不思議なことですが、思い返してみると、私自身にも、まったく同じことが言えるかもしれません。
というのは、この句をもって俳句を始めるまでにも、俳句には何度か触れる機会があった〔生業で歳時記の再編集、知人だった雪我狂流さんがご自分の結社誌掲載の句をまとめたいと事務所にお越しになり、私は句を入力し、ページメーカー(インデザインの前身)でページに組み上げ、プリントアウトした〕にもかかわらず、自分で俳句をやろうとはまったく思わなかった。
ところが、たまたま句会の端っこに坐ることになり(詳しい事情は「あとがき」をどうぞ)、この句とあと2句を作ったとき、私はきっと、「あれ?」と思ったのですね。この「あれ?」は柳本さんの「あれ」と同じだったような気がします。
自分とはまったく無縁と思っていたが、あれ? そうじゃないかもしれない。
そこから延々、俳句をやっている、というわけです。
(あ、それ以降、たいていは季語を入れましたよ。いわゆる有季定型がもっぱら)
●
【追記】
ハードウェア(造本)にも触れていただいた記事↓↓↓
〈けむり〉を成立させるマテリアルをめぐって
http://ameblo.jp/motokichi26/entry-11896529389.html
こちらも贈呈の外。望外の喜び。
「御前田あなた」という筆名も「ナイス」と感心しています。 すでにいろんなところで注目されている書き手です。
●
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9921.html
このペンネーム、かなりステキじゃないですか。というか、意表つかれますよ。「本々々」。
で、これ(というのは、句集に触れていただいたこと)は、たいへんありがたく、また、自分のまったくうかがい知れぬところで、この句集が読者に出会っているという点で、驚いてもいます(句集の読者可能性は、悲しいことに贈呈先の範囲をはみ出して広がるることがあまりない)。
ご自身のブログでも、記事を紹介されているのですが…
≫http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-148.html
「数ページの哲学あした来るソファー」という句をみたときに、あれ、俳句って〈わたし〉をめぐるシステムとしても機能しはじめているんじゃないかとおもったのです。
不思議なことですが、思い返してみると、私自身にも、まったく同じことが言えるかもしれません。
というのは、この句をもって俳句を始めるまでにも、俳句には何度か触れる機会があった〔生業で歳時記の再編集、知人だった雪我狂流さんがご自分の結社誌掲載の句をまとめたいと事務所にお越しになり、私は句を入力し、ページメーカー(インデザインの前身)でページに組み上げ、プリントアウトした〕にもかかわらず、自分で俳句をやろうとはまったく思わなかった。
ところが、たまたま句会の端っこに坐ることになり(詳しい事情は「あとがき」をどうぞ)、この句とあと2句を作ったとき、私はきっと、「あれ?」と思ったのですね。この「あれ?」は柳本さんの「あれ」と同じだったような気がします。
自分とはまったく無縁と思っていたが、あれ? そうじゃないかもしれない。
そこから延々、俳句をやっている、というわけです。
(あ、それ以降、たいていは季語を入れましたよ。いわゆる有季定型がもっぱら)
●
【追記】
ハードウェア(造本)にも触れていただいた記事↓↓↓
〈けむり〉を成立させるマテリアルをめぐって
http://ameblo.jp/motokichi26/entry-11896529389.html
こちらも贈呈の外。望外の喜び。
「御前田あなた」という筆名も「ナイス」と感心しています。 すでにいろんなところで注目されている書き手です。
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2014/07/25
■くにたち句会〔7月〕のお知らせ
2014年7月27日(日) 14:00 JR国立駅改札あたり集合
句会場所 いつものキャットフィッシュ
席題10題程度
句会後の飲食もよろしければ(拙宅・会費アリ)
はじめての方もひさしぶりの方もご常連様も、気が向いたら是非。
句会場所 いつものキャットフィッシュ
席題10題程度
句会後の飲食もよろしければ(拙宅・会費アリ)
はじめての方もひさしぶりの方もご常連様も、気が向いたら是非。
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資料映像 |
2014/07/24
■本日は、たこ八郎忌
それを記念(?)して、電書版「チャーリーさん」を無料化。
≫ http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/ebooks.html
登場する人名が古すぎるので、若い人向きではありません。
●
人名句66句
+
句友によるエッセイ
この人たちによるあの人たちのこと オリジナル版より一部再録
東山千栄子 聖母的な女性 text by 雪我狂流
中島らも 喫茶・鍵 text by 山本勝之
月の家円鏡 ひゃっひゃっひゃっひゃっ text by 笠井亞子
伊藤雄之助 分厚く重く暗い色の text by 長谷川裕
たこ八郎 ひととしてたことして text by 近藤十四郎
ビートきよし 弛んだような笑顔の残像 text by 村田篠
+
オリジナル版序文 邪道の一篇 text by 佐山哲郎
+
増補改訂版で新しく掲載 人名と俳句/人名と季語 text by 上田信治
≫ http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/ebooks.html
登場する人名が古すぎるので、若い人向きではありません。
●
人名句66句
+
句友によるエッセイ
この人たちによるあの人たちのこと オリジナル版より一部再録
東山千栄子 聖母的な女性 text by 雪我狂流
中島らも 喫茶・鍵 text by 山本勝之
月の家円鏡 ひゃっひゃっひゃっひゃっ text by 笠井亞子
伊藤雄之助 分厚く重く暗い色の text by 長谷川裕
たこ八郎 ひととしてたことして text by 近藤十四郎
ビートきよし 弛んだような笑顔の残像 text by 村田篠
+
オリジナル版序文 邪道の一篇 text by 佐山哲郎
+
増補改訂版で新しく掲載 人名と俳句/人名と季語 text by 上田信治
2014/07/23
■透明と静謐~小津夜景「オンフルールの海の歌」
@10_key あと小津さんを忘れてたのは、悔やんでも悔やみきれずですわ。
— 上田信治 (@ueda_shinji) 2014, 7月 22
ほぼ毎週10句ペースの小津夜景さん。このところ、句も、それを読む読者も、さらなる透明と、心地良い落ち着きのようなものを手に入れつつある気がします。
こちら≫http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/ozuyakei32.html
●
なつぎぬのたましひ帆にも空回る 小津夜景
白地着て雲に紛ふも夜さりかな 八田木枯
昼と夜。場面は違うのですが、感触は近い。
●
まひまひを食らうて待ちわびて睡魔 小津夜景
エスカルゴ三匹食べて三匹嘔く 金原まさ子
こちらは対照的。
●
びいどろよひとがさかなとよぶものは 小津夜景
かがやきが静謐のなかで抽出されていくようで、美しい。
●
2014/07/22
■内田遼乃ファンとしては、とても嬉しい…
…そんな記事を見つけました。
これです。
堀下翔:たまたま俳句を与えられた
≫http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/jijyo1.html
内田遼乃さんが作った句(≫内田遼乃:前髪ぱっつん症候群(シンドローム) http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/09/10_4064.html)について、何か言うことは難しい。好ましい意味で難しい。小賢しい批評が追いつけないスピードを備えているから。だから、「面白い」としか言うことがない。「面白い」という言い方は無責任だし、そうとしか言えないのは、言うほう(つまり私)の能力不足でしかない。悔しいから、すこし言うと、「横紙破り」だから、痛快である。
●
さてと、記事に戻ると、
そうですか。もう俳句はやっていないのですね。それもまた良し。
「こんな句があったのだ、あるのだ」と伝えることは、大事です。堀下翔さんは、今回、貴重な仕事をしたということでしょう。
内田遼乃さんの句群は、俳句甲子園の「量産」のなかから幸福にも生まれたものなのか、そうではないのかは、わからない(仮定を遡ることになるから、こうしたことはいつだって「わからない」のだ)。
句 と句を並べ、どちらが勝ったの負けたのというゲームのやり方は、その場で盛り上がるにはグッドアイデア、すばらしい。けれども、俳句という広い領野で捉えれば、 きわめて矮小で、つまらない。堀下翔さんの今回の記事は、そこのところを救う、という仕事でもある。俳句甲子園の「量産」の中から突き抜けて「妙なも の」、逸脱(もちろん良い意味での)が生まれることもある。それを多くの人に伝えようという記事は(繰り返しになりますが)貴重です。
●
いろいろあるんですよ、俳句にも。
これは単純で当たり前でありきたりで言わずもがななことのようでいて、意外とたいせつなことだと思っているのですよ。
もちろん、「こんな俳句じゃない。クズだ」という人たちもいることはわかっています。でも、逆説的に言えば、「こんなのが俳句だ」という俳句ばかりでは、貧しい。
「俳句じゃない」と言われるような俳句も含めて、俳句のヴァリエーションの豊かさです。
それに「俳句」か「俳句じゃない」かの判定を受けつつ俳句をやることもない。そんな判定にいちいち耳を貸すこともない。大きなお世話なのですね。
で、もっと大切なこと。
俳句である必要も、まあ、ないのです。それが「圧倒的なテクスト」であるならば。
●
これです。
堀下翔:たまたま俳句を与えられた
≫http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/jijyo1.html
俳句甲子園というシステムから彼女のような作家が出てくるとは思わなかった。良くも悪くもディベートを通して俳句を戦わせる俳句甲子園において、「ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう」のような句は突っ込みどころの塊でしかなかった。だけれどもこの句はいい句だと思った。面白いから。「突っ込みどころの塊」というより、むしろ突っ込みどころの「見つからない」句ではないかと思いますが(完璧ということではもちろんなく、出場高校生諸君は、この句のどこを突っ込むのだろう? 全部がダメか、全部がなんだか好ましいか、そのどちらかではないか。だから「ディベート」などというある種リクツの応酬にはきっと乗らない句ではないか。ま、それはそれとして)、「面白いから」と言うしかないのは私もほぼ同じです(細かいことをいえば「いい句」とか「悪い句」という言い方を私はしない。してしまうことはあるが、したとたんに後悔する。いい・悪いって、なんだよ、それwww)。
内田遼乃さんが作った句(≫内田遼乃:前髪ぱっつん症候群(シンドローム) http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/09/10_4064.html)について、何か言うことは難しい。好ましい意味で難しい。小賢しい批評が追いつけないスピードを備えているから。だから、「面白い」としか言うことがない。「面白い」という言い方は無責任だし、そうとしか言えないのは、言うほう(つまり私)の能力不足でしかない。悔しいから、すこし言うと、「横紙破り」だから、痛快である。
●
さてと、記事に戻ると、
顧問の外山氏に聞くと、もう俳句は作っていないとのことだった。(堀下翔・同)
そうですか。もう俳句はやっていないのですね。それもまた良し。
その代りに、彼女の俳句をまとめて見せてもらった。摂津幸彦賞や芝不器男賞にも応募していたという。いただいたのは、その応募句群。重複を除いておよそ100句である。ここに書かないと次に陽の目を見るのがいつになるか分からないので、紹介の意味も込めて見ていこう。(堀下翔・同)
「こんな句があったのだ、あるのだ」と伝えることは、大事です。堀下翔さんは、今回、貴重な仕事をしたということでしょう。
内田遼乃さんの句群は、俳句甲子園の「量産」のなかから幸福にも生まれたものなのか、そうではないのかは、わからない(仮定を遡ることになるから、こうしたことはいつだって「わからない」のだ)。
句 と句を並べ、どちらが勝ったの負けたのというゲームのやり方は、その場で盛り上がるにはグッドアイデア、すばらしい。けれども、俳句という広い領野で捉えれば、 きわめて矮小で、つまらない。堀下翔さんの今回の記事は、そこのところを救う、という仕事でもある。俳句甲子園の「量産」の中から突き抜けて「妙なも の」、逸脱(もちろん良い意味での)が生まれることもある。それを多くの人に伝えようという記事は(繰り返しになりますが)貴重です。
●
いろいろあるんですよ、俳句にも。
これは単純で当たり前でありきたりで言わずもがななことのようでいて、意外とたいせつなことだと思っているのですよ。
もちろん、「こんな俳句じゃない。クズだ」という人たちもいることはわかっています。でも、逆説的に言えば、「こんなのが俳句だ」という俳句ばかりでは、貧しい。
「俳句じゃない」と言われるような俳句も含めて、俳句のヴァリエーションの豊かさです。
それに「俳句」か「俳句じゃない」かの判定を受けつつ俳句をやることもない。そんな判定にいちいち耳を貸すこともない。大きなお世話なのですね。
で、もっと大切なこと。
俳句である必要も、まあ、ないのです。それが「圧倒的なテクスト」であるならば。
●
2014/07/18
■それはカナブンでもカマキリでもない
階下で嫁はんが「ぎゃあ」と叫ぶので、なになに?と問うと、「カナブンじゃなくて、カマキリじゃなくて…」。
降りていって、見ると、ゴマダラカミキリ(≫画像)。
カナブンともカマキリとも、似ても似つかない。ぜんぜん違う。
嫁はんは虫が苦手というだけでなく、昆虫の知識が皆無であることがわかりました。
なお、カミキリは、猫がどこかから持ってきたもの(飼っていらっしゃる方はご存じのとおり、いろいろなものを持ってきます)。
降りていって、見ると、ゴマダラカミキリ(≫画像)。
カナブンともカマキリとも、似ても似つかない。ぜんぜん違う。
嫁はんは虫が苦手というだけでなく、昆虫の知識が皆無であることがわかりました。
なお、カミキリは、猫がどこかから持ってきたもの(飼っていらっしゃる方はご存じのとおり、いろいろなものを持ってきます)。
2014/07/17
■前半戦終了
45勝38敗1分 勝率.542(2位) 得点370・失点363(2位・4位) 本塁打61(5位) 盗塁39(5位) 打率.267(2位) 防御率3.87(4位)
今年は最下位争いと見ていたので、期待以上です。
タイガースは子どものときからのファンで(村山バッキーはさすがにニュース映像)、こういうものって、自分からは変えられない。業(ごう)か宿痾のようなものです。
選手的には、スポーツ全般、多弁な選手、熱いことを言う選手は苦手。能見投手、鳥谷遊撃手あたりがお気に入り。彼らは飄々。プレイに美しさがあります。
後半戦も楽しみです(勝ち負けじゃなく)。
よく、「プロは結果がすべて」と、選手や監督自身が言いますが、あれは違いますね。成績(結果)は前提だけど(選手は成績を残さないと試合に出られない)、こちらが見ているのは、結果ではなく、内容や過程。
選手単位でいえば、その人が持っている、その人が見せてくれるコンテンツ。
例えば能見ならいまどきめずらしいワインドアップからの投球フォームであるとか、鳥谷なら「主審よりも正確」な選球眼であるとか、新井(兄)の数々の「新井さん」らしさであるとか。そのへんが見たいから野球を観ているのであって、勝つのが観たいわけではないのですよ。
今年は最下位争いと見ていたので、期待以上です。
タイガースは子どものときからのファンで(村山バッキーはさすがにニュース映像)、こういうものって、自分からは変えられない。業(ごう)か宿痾のようなものです。
選手的には、スポーツ全般、多弁な選手、熱いことを言う選手は苦手。能見投手、鳥谷遊撃手あたりがお気に入り。彼らは飄々。プレイに美しさがあります。
後半戦も楽しみです(勝ち負けじゃなく)。
よく、「プロは結果がすべて」と、選手や監督自身が言いますが、あれは違いますね。成績(結果)は前提だけど(選手は成績を残さないと試合に出られない)、こちらが見ているのは、結果ではなく、内容や過程。
選手単位でいえば、その人が持っている、その人が見せてくれるコンテンツ。
例えば能見ならいまどきめずらしいワインドアップからの投球フォームであるとか、鳥谷なら「主審よりも正確」な選球眼であるとか、新井(兄)の数々の「新井さん」らしさであるとか。そのへんが見たいから野球を観ているのであって、勝つのが観たいわけではないのですよ。
2014/07/15
■パリ祭 ナニナニ読みという問題
昨日7月14日はパリ祭(フランス共和国の成立を祝う日、革命記念日)でした。日本で暮らしていて決して親しい祝日ではないのだけれど(ルネ・クレール監督・1923年『巴里祭』を観た人もいまは少ないでしょう。私は未見)、俳句ではたまに登場する。理由は、「ほとんどの歳時記に載っているから」。情けないくらい身も蓋もない理由しか思いつかない。
おまけに、パリ祭と4音でもパリー祭と5音でも行ける、という、さらに情けないアドバンテージ。
以前、たしか句会で、パリ祭という季語は「きらきらしたもの」と相性がいい、という話になり、それは、メガネのパリミキ(1950年創業の眼鏡屋さん)があるから、という、これまた情けないような、フランス人が聞いたら目をまるくしそうな理由しか思いつかなかった。
と言いつつ、私もこの季語を使ったことがあります。
襁褓して君に逢ふ日のパリー祭 10key
もう大昔のことで、その頃所属していた『麦』では、介護俳句と解していただいた(シモの世話も自分ではままならなくなるだろう、そんな将来、君に逢う。その日は7月14日)。
ところが、これを書いていて思ったのですが、「変態読み」も可能(いわゆる赤ん坊プレイ)。
「走れ変態」9句掲載からまだあまり時間が経っていないせいでもあるでしょう。ううむ。アタマが毒されてしまった。
いわゆる「BL読み」について、私は批判的・抑制的であると某所(ツイッター)で表明したのですが、それは「読解されるべき内容=答えが一つである」ということを意味しない。句の読みは揺れるし、幅をもっている。そのとき、読者の欲望のままに「ナニナニ読み」することへの自省・自制という意味。
そのスタンスを前提としても、襁褓の句は、加齢・被介護読みもできるし、変態読みもできる。これは否めない。
句自身がみずからの姿を見出だせていない、というか、なんというか。句集『けむり』に入れなかったのは正解だったようです。
おまけに、パリ祭と4音でもパリー祭と5音でも行ける、という、さらに情けないアドバンテージ。
以前、たしか句会で、パリ祭という季語は「きらきらしたもの」と相性がいい、という話になり、それは、メガネのパリミキ(1950年創業の眼鏡屋さん)があるから、という、これまた情けないような、フランス人が聞いたら目をまるくしそうな理由しか思いつかなかった。
と言いつつ、私もこの季語を使ったことがあります。
襁褓して君に逢ふ日のパリー祭 10key
もう大昔のことで、その頃所属していた『麦』では、介護俳句と解していただいた(シモの世話も自分ではままならなくなるだろう、そんな将来、君に逢う。その日は7月14日)。
ところが、これを書いていて思ったのですが、「変態読み」も可能(いわゆる赤ん坊プレイ)。
「走れ変態」9句掲載からまだあまり時間が経っていないせいでもあるでしょう。ううむ。アタマが毒されてしまった。
いわゆる「BL読み」について、私は批判的・抑制的であると某所(ツイッター)で表明したのですが、それは「読解されるべき内容=答えが一つである」ということを意味しない。句の読みは揺れるし、幅をもっている。そのとき、読者の欲望のままに「ナニナニ読み」することへの自省・自制という意味。
そのスタンスを前提としても、襁褓の句は、加齢・被介護読みもできるし、変態読みもできる。これは否めない。
句自身がみずからの姿を見出だせていない、というか、なんというか。句集『けむり』に入れなかったのは正解だったようです。
2014/07/13
■句会3連チャン
某週末から月曜にかけて3日連続で句会(おそらく生まれて初めて)。
1)東京駅周辺 嘱目3句+席題「円」「卓」
東京駅にあまり馴染みがない人は、意外に多い(東京在住の人とかね)。私はむかし両親を迎えに行ったり送ったり。自分の帰郷にも使うので、周辺を含め、かなり親しい。
卓球をしてから滝を見に行かう 10key
2)朝顔市→根岸西念寺
入谷の朝顔市へ。洋食屋よしむら。今は少なくなったコロラドでコーヒー。この間ひとり散歩。根岸・西念寺での句会へ。二次会(錦華楼)。三次会(呑兵衛)。
「里」主催の句会だったが、「里」以外の人も多かった。異成分から成る句会(さまざまな出自・さまざまな所属の人が参加する句会)は、おもしろい。特に二次会以降。
青のあさがほ台東区に未来 10key
東京を流れてゆけば夕薄暑 10key
3)変態句会 持ち寄り3句+席題8題
某女流俳人の発案。ここでの作句を元に(といってもほとんどが書き下ろし)、「走れ変態」9句をまとめました。よろしければ覗いてみてください。
≫週刊俳句・第377号
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/3772014713.html
この手の句では、『新撰21』(2010年/邑書林)に次の素晴らしい2句がある。
春霖や君のおしつこなら飲める 北大路 翼
ボンデージのなかにみつちりあきのくれ 関 悦史
句と作者は別。それは承知であえて、おふたりをご存じの方は、聖水をまさに受けんとする翼氏を、ボンデージスーツに身を包んだ悦史氏をアタマに思い浮かべつつ読まれんことを。
1)東京駅周辺 嘱目3句+席題「円」「卓」
東京駅にあまり馴染みがない人は、意外に多い(東京在住の人とかね)。私はむかし両親を迎えに行ったり送ったり。自分の帰郷にも使うので、周辺を含め、かなり親しい。
卓球をしてから滝を見に行かう 10key
2)朝顔市→根岸西念寺
入谷の朝顔市へ。洋食屋よしむら。今は少なくなったコロラドでコーヒー。この間ひとり散歩。根岸・西念寺での句会へ。二次会(錦華楼)。三次会(呑兵衛)。
「里」主催の句会だったが、「里」以外の人も多かった。異成分から成る句会(さまざまな出自・さまざまな所属の人が参加する句会)は、おもしろい。特に二次会以降。
青のあさがほ台東区に未来 10key
東京を流れてゆけば夕薄暑 10key
3)変態句会 持ち寄り3句+席題8題
某女流俳人の発案。ここでの作句を元に(といってもほとんどが書き下ろし)、「走れ変態」9句をまとめました。よろしければ覗いてみてください。
≫週刊俳句・第377号
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/07/3772014713.html
この手の句では、『新撰21』(2010年/邑書林)に次の素晴らしい2句がある。
春霖や君のおしつこなら飲める 北大路 翼
ボンデージのなかにみつちりあきのくれ 関 悦史
句と作者は別。それは承知であえて、おふたりをご存じの方は、聖水をまさに受けんとする翼氏を、ボンデージスーツに身を包んだ悦史氏をアタマに思い浮かべつつ読まれんことを。
2014/07/12
2014/07/11
■フクダくん
フクダくんが週刊俳句の当番の一員となりました(≫こちら)。
現在大学院生ですが、リアルでお会いしたのは彼が大学生のときだと思います。ただ、最初の出会いはまったく思い出せない。俳句を拝読したのはもっと前。彼が高校生のとき、週刊俳句に寄せてくれた「海鳴」8句(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/10/blog-post_12.html)。高校生にして、こんなにもスっと立ち姿が良くて、じょうずな句を作っていたのですね。つまらないやつです。
以前は国立駅の近くに住んでいたフクダくんを街で見かけることもありました(思い出話をしようとしている。当番が終わるみたいな感じですが、違います。始まったのです)。
駅前の横断歩道で自転車に乗ったフクダくんを見つけた私は(顔を知っているという程度でしたが)、「フクダく~ん!」と声をかけた。フクダくんは自転車を降りて、こっちにやってきた。声をかけたものの、用事があったわけでもなく、咄嗟に話題も思いつかない。で、「じゃあ!」と答えた。フクダくんは、また自転車に乗って大学通りへと走り去った。
いっしょにいた嫁はんから、「なんで呼び止めるのよ!」と叱られた。フクダくん、あのときはごめん。
●
フクダくんの現在の作風はかなりユニークで、若手俳人のなかで特異な存在感を築いているようです。『俳コレ』には、《春はすぐそこだけどパスワードが違う》《伝説のロックンロール! カンナの、黄!》など、いわゆる青春性を億面もなく押し出した句も多い。これらの句を、私はあまり好きではなくて、「フクダくんの青春俳句は苦手」と関西のイベントにお邪魔したときの二次会で吐露したところ、久留島さんが、
「《ヒヤシンスしあわせがどうしても要る》をあれだけ褒めておいて、それですか!?」
その言い草はないだろう、ということです。
たしかに。でも、言わせていただければ、1曲大好きだけど、アルバム全体を見渡すと、「どうもちょっと」という曲がある、ってことがあるでしょう? あれです。
というよりも、青春俳句がどうもダメなのです。きっと青春にヤマシイことがあるのですね。
それでも、『俳コレ』の100句には好きな句もたくさんあります。
冒頭の
歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて 福田若之
「知」などとハダカの語が使われ、全体に甘いですが、こういう甘さは意外にきらいではありません。フクダくんは、知(savoir)に近しい学問に、いま携わっていることを差し引いても、すがすがしい覚悟のような第一句です。
●
あ、そうそう、自分に引き寄せた話題で恐縮ですが、以前、『手紙』という同人誌(若者ばかりでやっていた)で拙句集『けむり』について書いてくれました。そこでおもしろかった、というか吃驚したのは、「この一句」ということで、《世界一すごい葉牡丹だと思ふ》が挙げてあったこと。
え? この句?
句集というのは(というか『けむり』の場合は)、いろいろな球を投げます。外角低めスレスレの変化球だとか、高めのつり球だとか、直球と思わせて落とすとか。
そんななか、この葉牡丹の句は、いわば「暴投」という位置づけです(ピッチングの組み立てには暴投やビーンボールも要る)。
そういう一句を、わざわざ?
この人は、ヘンな人かもな、と思ったことでしたよ。
●
さて、再び『俳コレ』の福田若之「302号室」100句を眺めます。
鉄腕アトム夜露にさらされて眠る 福田若之
ブリキの玩具とは解さない(「見たものを俳句にしなさい」という教条主義には、「玩具ですよ」と答えておけばよいね)。
これはどの巻かなあ? 「ポチョムポチョム島の巻」で両親に叱られたあとか。違うか。
こんどじっくり『鉄腕アトム』について語り合いたい。フクダくん専門の表象(representation)分析でもって、この境界性にまつわる(betwixt and between)テクストについて。
現在大学院生ですが、リアルでお会いしたのは彼が大学生のときだと思います。ただ、最初の出会いはまったく思い出せない。俳句を拝読したのはもっと前。彼が高校生のとき、週刊俳句に寄せてくれた「海鳴」8句(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/10/blog-post_12.html)。高校生にして、こんなにもスっと立ち姿が良くて、じょうずな句を作っていたのですね。つまらないやつです。
以前は国立駅の近くに住んでいたフクダくんを街で見かけることもありました(思い出話をしようとしている。当番が終わるみたいな感じですが、違います。始まったのです)。
駅前の横断歩道で自転車に乗ったフクダくんを見つけた私は(顔を知っているという程度でしたが)、「フクダく~ん!」と声をかけた。フクダくんは自転車を降りて、こっちにやってきた。声をかけたものの、用事があったわけでもなく、咄嗟に話題も思いつかない。で、「じゃあ!」と答えた。フクダくんは、また自転車に乗って大学通りへと走り去った。
いっしょにいた嫁はんから、「なんで呼び止めるのよ!」と叱られた。フクダくん、あのときはごめん。
●
フクダくんの現在の作風はかなりユニークで、若手俳人のなかで特異な存在感を築いているようです。『俳コレ』には、《春はすぐそこだけどパスワードが違う》《伝説のロックンロール! カンナの、黄!》など、いわゆる青春性を億面もなく押し出した句も多い。これらの句を、私はあまり好きではなくて、「フクダくんの青春俳句は苦手」と関西のイベントにお邪魔したときの二次会で吐露したところ、久留島さんが、
「《ヒヤシンスしあわせがどうしても要る》をあれだけ褒めておいて、それですか!?」
その言い草はないだろう、ということです。
たしかに。でも、言わせていただければ、1曲大好きだけど、アルバム全体を見渡すと、「どうもちょっと」という曲がある、ってことがあるでしょう? あれです。
というよりも、青春俳句がどうもダメなのです。きっと青春にヤマシイことがあるのですね。
それでも、『俳コレ』の100句には好きな句もたくさんあります。
冒頭の
歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて 福田若之
「知」などとハダカの語が使われ、全体に甘いですが、こういう甘さは意外にきらいではありません。フクダくんは、知(savoir)に近しい学問に、いま携わっていることを差し引いても、すがすがしい覚悟のような第一句です。
●
あ、そうそう、自分に引き寄せた話題で恐縮ですが、以前、『手紙』という同人誌(若者ばかりでやっていた)で拙句集『けむり』について書いてくれました。そこでおもしろかった、というか吃驚したのは、「この一句」ということで、《世界一すごい葉牡丹だと思ふ》が挙げてあったこと。
え? この句?
句集というのは(というか『けむり』の場合は)、いろいろな球を投げます。外角低めスレスレの変化球だとか、高めのつり球だとか、直球と思わせて落とすとか。
そんななか、この葉牡丹の句は、いわば「暴投」という位置づけです(ピッチングの組み立てには暴投やビーンボールも要る)。
そういう一句を、わざわざ?
この人は、ヘンな人かもな、と思ったことでしたよ。
●
さて、再び『俳コレ』の福田若之「302号室」100句を眺めます。
鉄腕アトム夜露にさらされて眠る 福田若之
ブリキの玩具とは解さない(「見たものを俳句にしなさい」という教条主義には、「玩具ですよ」と答えておけばよいね)。
これはどの巻かなあ? 「ポチョムポチョム島の巻」で両親に叱られたあとか。違うか。
こんどじっくり『鉄腕アトム』について語り合いたい。フクダくん専門の表象(representation)分析でもって、この境界性にまつわる(betwixt and between)テクストについて。
2014/07/10
2014/07/09
2014/07/08
■マボロシの妹・カナシミの兄
なぜに、俳人と南こうせつは、妹といえば決まって「妹よ」なのか?
そう語ったのは歌人の佐藤りえさんでありました(≫こちらのツイート)。
そうですよねえ。
ただね、《妹よ淀は砂漠の水車・鈴木六林男》とか《切(きれ)に包めば山脈となる妹よ・攝津幸彦》とか《いじめると陽炎になる妹よ・仁平勝》とか、おもしろい句もあるんですよ。
一方、妹という「虚構」は、もっと広い文脈。妹が虚構的に、独特の願望やリビドーで語られるのを頻繁に見聞きしたことがある気がすします。
で、ですが、妹についてこれ以上何か書きたいというのではなく、「兄」の話です。
金太郎飴をポキンと暗い兄 古谷恭一
『川柳木馬』第140号・第141号合併号(2014年6月)にこんな句を見つけ、兄ってなんだか悲しいな、と思ってしまったのです。
少し俳句から拾ってみると、《かげろうのどこを摑めば兄還る・成清正之》など、先立つ兄の膨大な句群のほか、
致死量の月光兄の蒼全裸 藤原月彦
これは超有名句ですね。あるいは、
鮎よりも冷たし兄のサキソフォン 渋川京子
とか、
憂鬱の長薯はわが兄なりき 四ツ谷龍
とか、
腰高の兄よ水母を海に飼い 池田澄子
とか、
雛段を担いで兄はふり返る 柿本多映
とか、おもしろい句が多く、どれもそれぞれにカナシミをたたえているような気がします。
そんななか、
松虫や兄は潜水艦乗りだ 相原左義長
雪だるま兄は潜水艦だった 相原左義長
こんな突拍子もない2句も見つけた。
だいたいにして、潜水艦乗りなのか潜水艦そのものなのか。「どっちでもおんなじでしょ」というステキな答えを想定しつつ。
季語(松虫、雪だるま)も、ワケがわかりません。
相原左義長。
ちょっと読んでみないと、ですね。
●
そう語ったのは歌人の佐藤りえさんでありました(≫こちらのツイート)。
そうですよねえ。
ただね、《妹よ淀は砂漠の水車・鈴木六林男》とか《切(きれ)に包めば山脈となる妹よ・攝津幸彦》とか《いじめると陽炎になる妹よ・仁平勝》とか、おもしろい句もあるんですよ。
一方、妹という「虚構」は、もっと広い文脈。妹が虚構的に、独特の願望やリビドーで語られるのを頻繁に見聞きしたことがある気がすします。
で、ですが、妹についてこれ以上何か書きたいというのではなく、「兄」の話です。
金太郎飴をポキンと暗い兄 古谷恭一
『川柳木馬』第140号・第141号合併号(2014年6月)にこんな句を見つけ、兄ってなんだか悲しいな、と思ってしまったのです。
少し俳句から拾ってみると、《かげろうのどこを摑めば兄還る・成清正之》など、先立つ兄の膨大な句群のほか、
致死量の月光兄の蒼全裸 藤原月彦
これは超有名句ですね。あるいは、
鮎よりも冷たし兄のサキソフォン 渋川京子
とか、
憂鬱の長薯はわが兄なりき 四ツ谷龍
とか、
腰高の兄よ水母を海に飼い 池田澄子
とか、
雛段を担いで兄はふり返る 柿本多映
とか、おもしろい句が多く、どれもそれぞれにカナシミをたたえているような気がします。
そんななか、
松虫や兄は潜水艦乗りだ 相原左義長
雪だるま兄は潜水艦だった 相原左義長
こんな突拍子もない2句も見つけた。
だいたいにして、潜水艦乗りなのか潜水艦そのものなのか。「どっちでもおんなじでしょ」というステキな答えを想定しつつ。
季語(松虫、雪だるま)も、ワケがわかりません。
相原左義長。
ちょっと読んでみないと、ですね。
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2014/07/07
■これまで週刊俳句のコメント欄は基本オープンにしてきましたが、どこの誰なのかを明らかにしたものだけに限ることにしようかと、現在考え中。匿名やワケのわからないハンドルネームによるコメントは、内容の如何を問わず、本人以外、誰も望んでいない、読みたくも見たくもない、ということが、なんとなくわかったので。
匿名コメントがインターネットに果たした/果たしている役割については、理解するものであります。2ちゃんねるのまとめブログは、転載禁止措置で急速に廃れつつありますが、その場独特のマナーや間合いを熟知した多数の「匿名」氏たちによる(井戸端性豊かな)会話のやりとりは、実際おもしろかった。しばしば素晴らしい批評ともなりました。
けれども、俳句界隈の「匿名」に、それはない。
匿名コメントには匿名コメントなりの技術やマナーが必要であることを、きっとご存じないのでしょう。
これまで7年以上見てきましたが、週刊俳句のコメント欄で、匿名氏やハンドルネーム氏が、なんらかの悦ばしい事態(意味のある議論の展開、方向修正etc)に寄与する可能性は、ほとんどゼロに近いと判断してよさそうです。
私の一存で決まられることではないので、すぐにそうなるということはないのですが、いまのところ、私個人はそんなふうな感じです。
※誤記や間違いを正してくださる「通りがかり」のコメントは、上記に該当せず。とても有益です。
けれども、俳句界隈の「匿名」に、それはない。
匿名コメントには匿名コメントなりの技術やマナーが必要であることを、きっとご存じないのでしょう。
これまで7年以上見てきましたが、週刊俳句のコメント欄で、匿名氏やハンドルネーム氏が、なんらかの悦ばしい事態(意味のある議論の展開、方向修正etc)に寄与する可能性は、ほとんどゼロに近いと判断してよさそうです。
私の一存で決まられることではないので、すぐにそうなるということはないのですが、いまのところ、私個人はそんなふうな感じです。
※誤記や間違いを正してくださる「通りがかり」のコメントは、上記に該当せず。とても有益です。
2014/07/06
2014/07/05
2014/07/04
2014/07/03
■「切れ」のこと 歌人・俳人・柳人合同句歌会に行ってきました
短歌の雑誌『かばん』(2014年6月号)が、ふだん短歌に触れない私の手元にあります。
なぜかというと、去る3月2日(日)、同誌主催の「歌人・俳人・柳人合同句歌会」に、なぜかお誘いいただいて、参加したからです。
歌人は「かばん」会員の皆さん、俳句から私を含め3名、川柳から2名。それぞれが五七五七七七を一首、五七五を一句、事前に提出(ふだん作らない形式も作るわけです)。当日、選と合評、というユニークな催しでした。
合評で興味深かったのは、歌人の皆さん(柳人も含めてか)が俳句における「切れ」にたいへん関心を持たれていて、結果、俳人が質問に答えるという流れになったところ。
季語は理解しやすいけれど、「切れ」はわかかりくい、ということだと思いますが、そりゃあ、そうです。俳句をやっていても、なかなか理解の及ばぬところもあり、また、俳人同士で充分な共通理解を得られているかというと、そうでもないところがある。
「切れ」とは、切るというくらいだから、何かが切れる。文脈の「断裂」と、ひとまず解してよいのだろう(参加された俳人の手嶋崖元さんは「ところで、と話を変える機能」とうまく嚙み砕いて説明されていました)。
ところが、現状、私たちがふだん目にする俳句(現在作られている俳句)を考えると、断裂・断絶になっていない「切れ」が数多い(とりわけ、季語+切れ字+12音の形)。
まず、背景説明・状況設定。
これがは例えば12音で何かが語られ、「それは春のことでしたよ」、あるいは、「ちょうどそこに満月が出ていてね」 といったのパターンが典型的。
次に、雰囲気・気分の説明。
例えば「のどか」という季語のあとに「や」が来て、切れる句は、それに続く12音がたいていは「のどか」なことの描写になる。あるいは、諧謔の強い12音のあとに「四月馬鹿」といった季語が来る。これらは「切れ」が断裂ではなく「イコール」の機能。
句の成否はさておき、切れが断裂ではなくなっている句は、とても多い。そのへん、形では切れているのだから、「切れが浅い」とその場で咄嗟にご説明した。二物衝撃といった概念からは遠い「浅い切れ」。これが、今風の句、あっさり味の句の特徴の一つでもあるようです。
(切れ字を使用しない切れも、同様のことが言えます)
「切れ」って、ほんといろいろで、「キレ」は、句ごとに違う働きをしているようです(だからこそ、俳句全体のバリエーションの幅が出るのでしょう)。
とまあ、そんな感じで、とても刺激的でおもしろい合評の時間を過ごさせていただいたわけですが(「かばん」誌に感謝) 、そういえば、と思い至ったのが、五七五七七の一首を準備していたときのことでした。
短歌はほとんど作ったことがない。経験は数首、オクムラさん的なノリをめざして大失敗こいた数首 http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2013/10/7.html があるくらいの初心者。一首、作らねば、となったとき、この線(日常日記風)は、まあやめておこうと。
それから、いわゆる私性の強いものも避けようと。これはふだん俳句をやってると、どうも心地が悪い。「私」は使い慣れない。
そう決めて作り始めたわけですが、五七五七七(31音)を一文の構造にするのも避けようとする自分がいる。これは興味深いことでした。どこかで「切り」」たがる。一つのことを言うのだけれど、構造として、人つながりにしたくない。結果、出来上がったのが、
駆け抜ける馬のかずかず現実の世界と同じ大きさの地図 10key
という31音。名詞節+名詞節。〈現実の世界と同じ大きさの地図をあまたの馬が駆け抜く〉とはしなかった(どちらも巧拙や成否は別問題)。
これは、自分て「俳句体質なんだなあ」と思ったことでしたよ。
(短歌では、節と節で構成する場合、どちらかを用言止めにするらしい。体言止め同士の名詞節+名詞節は、さすが短歌初心者・シロウトといったところでしょう)
「切れ」は、私に染み付いていたのですね。って、そんなカッコいいものではなく、31音どころか、17音の〈長さ〉に耐えられない、という人が俳句を楽しんでいるのかもしれないですよ。いや、これ、わりとマジメな話。
●
追加の話題として、歌人の皆さんの短歌の読みが、象徴作用、隠喩へと積極的に足を踏み入れるのを聞いていて、この点でも、自分の俳句体質を感じました。
象徴作用を俳句に持ち込まないという自分の態度とは遠い。
これは短歌と俳句の違いなのか。その場にいらした歌人の傾向なのか。そのへんは、まったくわかりません。
≫関連記事:週刊「川柳時評」
≫かばんの会・ウェブサイト
●
なぜかというと、去る3月2日(日)、同誌主催の「歌人・俳人・柳人合同句歌会」に、なぜかお誘いいただいて、参加したからです。
歌人は「かばん」会員の皆さん、俳句から私を含め3名、川柳から2名。それぞれが五七五七七七を一首、五七五を一句、事前に提出(ふだん作らない形式も作るわけです)。当日、選と合評、というユニークな催しでした。
合評で興味深かったのは、歌人の皆さん(柳人も含めてか)が俳句における「切れ」にたいへん関心を持たれていて、結果、俳人が質問に答えるという流れになったところ。
季語は理解しやすいけれど、「切れ」はわかかりくい、ということだと思いますが、そりゃあ、そうです。俳句をやっていても、なかなか理解の及ばぬところもあり、また、俳人同士で充分な共通理解を得られているかというと、そうでもないところがある。
「切れ」とは、切るというくらいだから、何かが切れる。文脈の「断裂」と、ひとまず解してよいのだろう(参加された俳人の手嶋崖元さんは「ところで、と話を変える機能」とうまく嚙み砕いて説明されていました)。
ところが、現状、私たちがふだん目にする俳句(現在作られている俳句)を考えると、断裂・断絶になっていない「切れ」が数多い(とりわけ、季語+切れ字+12音の形)。
まず、背景説明・状況設定。
これがは例えば12音で何かが語られ、「それは春のことでしたよ」、あるいは、「ちょうどそこに満月が出ていてね」 といったのパターンが典型的。
次に、雰囲気・気分の説明。
例えば「のどか」という季語のあとに「や」が来て、切れる句は、それに続く12音がたいていは「のどか」なことの描写になる。あるいは、諧謔の強い12音のあとに「四月馬鹿」といった季語が来る。これらは「切れ」が断裂ではなく「イコール」の機能。
句の成否はさておき、切れが断裂ではなくなっている句は、とても多い。そのへん、形では切れているのだから、「切れが浅い」とその場で咄嗟にご説明した。二物衝撃といった概念からは遠い「浅い切れ」。これが、今風の句、あっさり味の句の特徴の一つでもあるようです。
(切れ字を使用しない切れも、同様のことが言えます)
「切れ」って、ほんといろいろで、「キレ」は、句ごとに違う働きをしているようです(だからこそ、俳句全体のバリエーションの幅が出るのでしょう)。
とまあ、そんな感じで、とても刺激的でおもしろい合評の時間を過ごさせていただいたわけですが(「かばん」誌に感謝) 、そういえば、と思い至ったのが、五七五七七の一首を準備していたときのことでした。
短歌はほとんど作ったことがない。経験は数首、オクムラさん的なノリをめざして大失敗こいた数首 http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2013/10/7.html があるくらいの初心者。一首、作らねば、となったとき、この線(日常日記風)は、まあやめておこうと。
それから、いわゆる私性の強いものも避けようと。これはふだん俳句をやってると、どうも心地が悪い。「私」は使い慣れない。
そう決めて作り始めたわけですが、五七五七七(31音)を一文の構造にするのも避けようとする自分がいる。これは興味深いことでした。どこかで「切り」」たがる。一つのことを言うのだけれど、構造として、人つながりにしたくない。結果、出来上がったのが、
駆け抜ける馬のかずかず現実の世界と同じ大きさの地図 10key
という31音。名詞節+名詞節。〈現実の世界と同じ大きさの地図をあまたの馬が駆け抜く〉とはしなかった(どちらも巧拙や成否は別問題)。
これは、自分て「俳句体質なんだなあ」と思ったことでしたよ。
(短歌では、節と節で構成する場合、どちらかを用言止めにするらしい。体言止め同士の名詞節+名詞節は、さすが短歌初心者・シロウトといったところでしょう)
「切れ」は、私に染み付いていたのですね。って、そんなカッコいいものではなく、31音どころか、17音の〈長さ〉に耐えられない、という人が俳句を楽しんでいるのかもしれないですよ。いや、これ、わりとマジメな話。
●
追加の話題として、歌人の皆さんの短歌の読みが、象徴作用、隠喩へと積極的に足を踏み入れるのを聞いていて、この点でも、自分の俳句体質を感じました。
象徴作用を俳句に持ち込まないという自分の態度とは遠い。
これは短歌と俳句の違いなのか。その場にいらした歌人の傾向なのか。そのへんは、まったくわかりません。
≫関連記事:週刊「川柳時評」
≫かばんの会・ウェブサイト
●
2014/07/02
2014/07/01
■本日は滝口修造忌
滝口修造は美術評論(文章)でよく知られる人ですが、絵(ドローイング)が、私には良いのです(好きという意味)。
≫http://tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1401/245.html
松岡修造氏に
瀧口のはうの修造的きのこ 10key
「灰から灰へ」10句より。
≫http://tokinowasuremono.com/tenrankag/izen/tk1401/245.html
松岡修造氏に
瀧口のはうの修造的きのこ 10key
「灰から灰へ」10句より。
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