2015/12/29

【句集をつくる】第7回 実務も少しはやらないと、です

過日来訪のイコマ氏が、句集の予算=チャーハン2000杯が目安、という記事をおもしろがって、「あれ、体積にすると、どのくらいでしょうね」と、暗算を始めてくれた。さすが東大理系大学院卒(これ、りっぱに学歴ハラスメントですね)。

結果、部屋いっぱいにはなりそうにないという、ぼやーっとした結論に達しました。

さて、今回は、実際に連作について頭を悩ませることにします。


例えば、《十一月八日ぽろりと臍の胡麻》という句から始まって、《十二月六日ふうせんだまに臍》〔*〕に終わる連作、数句から十数句を考えましょう。

初冬、あるいは冬前半です。途中、なかほどの位置に、もう一句くらい、日付の入った句がほしい。「十一月某日」といった不確定でもいいですね。「臍」はひつこいので入れない。気張らずに、句にするのがよいです。いまさら力を込めてもしかたがない(世の中もう終わってるんですから)。

《十一月某日メモに出汁の滲み》とかいって台所俳句。メモと日付はカブり気味なので、《十一月某日犬の鳴くテレビ》とかいって情けない感、《十一月某日ところどころ雨》と、惚けるとか。

「ところどころ」で思い出したのですが、最近、踊り字を使う人が増えている気がします。旧仮名に揃えて、ということでしょうが、「ゝ」とかはあるのに、2字以上に用いる「く」の長いやつは使っていないケースもあって、なかなか徹底できないものだなあ、と。もっとも、いまの印刷だと、この、たらーっと長い「くの字点」がきれいなかたちに出ない。見た目を考えると、ムリがあるのですね。

閑話休題。連作です。

十一月、立冬以後は冬ですが、体感的には、そうでもない。秋を引きずっています。林檎の句がほしい。林檎は秋の季語ですが、冬の感じもある。「冬林檎」という季語にはいまだに違和感があります。

そういえば、シクラメンも春の季語になっていますが、冬の感じですね。長く咲き継ぐ花。このまえ南房総の道の駅で買ったシクラメンは、いまもきれいに咲いています。もっとも、シクラメンはちょっと早い。年を越した時期の連作でよろしいか、と。

「初時雨」とか入れると、冬前半の感じが出そう、とかなんとか姑息なことを考えたりもしますが、いや待てよ、初時雨ってものが、自分のなかにあるかというと、あんまり、ない。時雨はあっても、それが「初」かどうかはわからない、というかそれほど関心がない。こういう季語は、「ああ、今年初めての時雨だ」ときちんと認識できる人が詠むのがよろしいです。キャラ(作家性)が出る。おおむねぼんやりしているのに、初時雨だけ、いやにシャキンとわかってるぽく書くのはちょっと奇妙。同じ5音なら「時雨かな」かもしれません。

ともかく、この「ふうせんだまに臍」(仮)は、臍的なこと、秋から冬になった的な気分が連作になるといい。それくらいゆるい括り。


〔*〕「風船」は春の季語でしょう?と疑義をはさむ人もいそうですが、気にしません。(この「風船」が季語かどうかという問題はさておき)、「一句に季語はひとつ」という「ルール」(というか原則?)はさすがに私でも知っています。そこをいまさら語ってもしたかがないので、前述のようなセリフには「そうですね」と答えておくか、ちょっと元気なときは「季語はなくてもいいし、200個くらい入ってもいいんですよ。それが有季定型ということです」と答えることにしています。すると、「こいつに季語のことを言ってもしかたがない」てなことで引き下がってくれる。私としてもムダな時間が省けます。

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