2017/12/10
■私の彼はわからない いわゆる難解句の周辺
蛭子能収に『私の彼は意味がない』という名タイトルの著作があることはさておいて、ある種の俳句が「わからない」という話。
ツイッターでちょっとやりとりがあったわけで、誰か togetter にまとめてくれるとありがたいんだけれど、それはそれとして、この件、7月にもちょっと触れたんですよね。
「わからない」というコメントはよく耳にするんですが、なにがわからないのかがわからない場合が多くて、ただ「わからない」とだけ言ってるなら、無視するのがいいと思います。なにがわからないのかがわからないと、話が展開しない。
これって、「わからない」のなかに「どこがおもしろいのかわからない」「どこがいいのかわからない」という低評価の言い換えが含まれているので、ややこしくなる。
それを除外すると、解釈できない、なに言ってるのかわからない、意味がわからない系の「わからない」になるわけですが、これにもいろいろな成分・いろいろな層がある。これを腑分けするのは、すこしは生産的かもしれないです。
ただ、なかには、この単語、知らない、わからない、というのもあって、それには「辞書引けや、ボケ」としか言いようがない。
それも除外すると、いわゆる難解句に対する俳人、一般俳句愛好家の態度としての「わからない」が残る。
俳句は、韻文とか詩とか言われながらも、たぶんに《散文的》に意味を摑もうとすることが多い。句の側も、《散文的》に意味が通った句が多い。圧倒的に多い。「発見」とか「共感」とかといったある種緩くて甘い鍵語で語られる句もそれに含まれます。機知の句も同様。
それらに対して、散文的には意味が通らない。省略や倒置や比喩や、そういうものを考慮しても、意味が通らない。そういう句、たしかにあります(意味が通るのが俳句とも、通らないのが俳句とも、私は思ってない。為念)。
ここで言っておかないといけないのは、わかる句が良いとか悪いとか、わからない句が良いとかってことを言いたいのではないってことです。
私の関心はそこじゃなくて、《わかる・わからない》と《良い・悪い》が読者のなかでどのように関連しているのか、ということです。
(つづく)
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4 件のコメント:
びっくりしました。ねじまきに同じようなこと書いたのです。
こんばんは。
既刊ですか? それなら拝読しているかも、です。
これから出るならぜひ読んでみたいです。
こんばんは。あまりの偶然にごあいさつするのさえ忘れておりました。これから出るほうです。ただあまり紙幅が(時間も)なかったので、ごく浅いです。続編も書く予定でもあります。わたし初心のころからわからないと言われまくってきたので。
なかはらさん、こんにちは。『川柳ねじまき』#4の記事、拝読しました。
こちら↓↓↓の拙記事も濃く関連しますね。
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2017/12/blog-post_12.html
ねじまきについてはまたあらためて触れさせていただきます。
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