ルビはない。「復習ふ」は「さらう」だろう。教わった踊りをビルのガラスに自身を映して(スタジオなら鏡なので、違う。これは閉店後の所業施設など、街なかの仮の練習場だ)、練習を繰り返す。
夜中によく見る風景。なにかをきちんと習ったことがなく、したがってきちんとさらったことがないので、「ああ、いいな」と羨望の眼差しで、若い子たちを見ている。
「さらう」という語もあまり身近にしなかったが、結婚して一緒に暮らす人が、小さい頃から「さらう」ことを日常にしてきた(そして今は若い人たちに「さらう」ことを教え伝えている)人なので、この語をふだんからよく耳にするようになった。
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ところで、この句の「踊り」は、どう読んでも歳時記本来の踊り、すなわち盆踊りではない。そう読めなくもないが、読者たる私は、盆踊りとは読みたくない。したがって、無季として読む(といっても寒い時期とは思えないが)。無季だからといって、なんの不便もない。
俳句における「踊り」の語は、さいきんこういうケースが多いように思う。この話題については、またあらためて。
話を戻すと、ならう、さらう。いくつになっても、この愉しさを知り、味わうことができるのだろうか。
できると、いいな。
ラヴ&ピース!
掲句は小池康生『奎星』(2020年10月/飯塚書店)より。
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