2021/03/16

■「俳句という文芸がもたらした害悪」by 小田嶋隆

小田嶋隆の俳句関連のツイート(≫こちら)。


小田島隆の記事はよくネット上で面白く読んでいる。「なんで俳句を話題にするのだろう? 時事を扱って巧みな人がわざわざ?」というのがとりあえずの感想ですが、俳人からの反応も若干あるようなので、私も(なんでだ? 暇か?)反応してみると…。

1 「季節感に触れてさえいれば、自動的に名文だと思いこんでしまう大量の読者」

え? ほんと? 大量? いるとしたら、「名文」の基準が低すぎなので、これは国語教育、文化その他、もっと大きな問題に属する。

2 上記が「俳句という文芸がもたらした害悪」であるとする点

俳句が原因ではないだろう。季節・季節感が嫌いという人はあまりいないし、話題がなければ季節の話をしとけばいいというところがあるし(「ようやく涼しくなりましたね」とかの挨拶)。どちらかといえば、俳句のいうジャンルが、季節・季節感=人に嫌われない話題というところに寄りかかっているかな?

3 「何かのアンケートで「日本が好きな理由」の回答としてかなり高い順位に「四季があるから」というのがあった。地球上のどこであれ、人間の居住環境には、固有の季節変化があると思うのだが、どうして自分の国の季節感だけを特権的に考えるのか不思議だった(…)」

うん、これは不思議。ヴィヴァルディが聞いたら、腰を抜かす。

4 「あれ、たぶん「歳時記」のせいだな。」

それは違うと思う。歳時記はそれほど各家庭に行き渡っているとは思えない。歳時記をめくってみたことのある人って、どれくらいいるのだろう。ずいぶんと少ないのではないか。

5 「「季節の変化への繊細な感覚」を日本人に特有な美点だと考えるのは勘違いだと思う。」

3と同じ。特有なわけがない。自民族中心主義(ethnocentrism)の一端ってかんじ。

6 「わが国民の季節への拘泥は、歴史や政治への無知の弁解になっている」

これはちょっと難しい。弁解にどう結びつくのか、私にはよく理解できない。「歴史や政治のことはよくわからねえが、春になったら、種さ撒くさ。夏になったら、花火見るべ」みたいなこと?(ポリコレ的に問題のある例示)

7 「俳句のレギュレーションが「季語必須」になっていることに対しては、「うっせえわ」と思っている。」

はい。そう思うこと、よくあります。でも、「季語必須」などいう「レギュレーション」、世間が考えるほど一般的じゃないです。特定流派、特定集団の決まりごとに過ぎないので、あまり気にすることもない。

8 「基本姿勢として、俳句には手を出さない。」

これは正しい。面白い散文を書く人なのに、五七五だと、なんでこんなにつまらないもの書くんだろう? という例を数多く見ているので、この態度は正解。


さっくり言って、季節・季節感さえ出しときゃいいわ、ってな散文ってどーなの? という点には首肯。それは散文だけではなく、俳句でも同じ。季語さえ入れとけば俳句、というわけには行かないのと同じ。

ただ、季節感バンザイな態度(の蔓延)が、俳句のいう文芸ジャンルのせいかというと、違う。

通俗的日本人論・通俗的日本文化論の長期にわたる膨大な積み重ねがもたらしたものだろう。

問題はむしろ(3の繰り返しになるが)、俳句がそうした日本人論・日本文化論のステレオタイプにもたれかかり、季語に対する自己愛的な賛美を伴いつつ通俗・凡庸の塗り重ねに終始するような事態のことです。こっちがもたらす「害悪」について考えること、意識的であることのほうがだいじかもね。

ラヴ&ピース!

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