2013/06/25

■ヘースブック、はじめました

ところが、何をすればいいのやら(何もしなければいい)、どこに書くのがいいのやら(現在は「ノート」という機能を使用)、皆目わかりません。

非公開(クローズド)に設定(しかるに、実際にお会いしたことのある方、オンラインである程度存じ上げている方と「友達」関係を結ばせていただいています)しているつもりですが、そうなっているのかどうかも不安。

「こうしたらいいよ」というのがあれば、こっそり教えてください。

■本日はマイケル・ジャクソン忌

アップテンポの曲でマイ・フェイバリットは、I Want You Back(1969)。




バラードだと、La La Means I Love You(1970)。


2013/06/24

■句会無事終了

日曜日、近くの小学校で都議選の投票後、句会の飲食の準備のため、日野の角上水産へ。手巻き寿司(ニューヨークからぽぽなさん来訪なので和風が良かろうという安易な判断)の材料を購入。いったん帰って、国立駅へ。yuki氏はその足で仕事へ(生徒さんの演奏会かなにか?)。紀ノ国屋へ寄ってワイン購入(プロの呑兵衛・うさぎさんに選んでもらう)。

席題6題と飲食しつつの袋回しで、計20~30句(参照www≫おまいら、ちょっと、俳句つくりすぎ)。

席題で「次元」が出たので、The 5th Dimension のCD(ジャケットが気に入って買ったベスト盤)をかけたりも。

句会原則「悪魔のように句をつくり悪魔のように飲みかつ食う」が実現したかどうかはわからないが、今回も無事終了。次回は通常の最終日曜に戻って、7月28日の予定。





2013/06/23

■おまいら、ちょっと、俳句つくりすぎ

…などとは言いにくい。感じが悪いし、そんなことは大きなお世話、それぞれつくりたいからつくっているのだから。

一方、「どんどん俳句をつくりましょう」。これは、感じが悪いなんてことは、ない。ただ、そんなこと言われなくても、どんどんつくるのが俳人/俳句愛好家の性(さが)であり、「つくるな」と言ってもつくるのが彼らです。

ところで、35年前。
いまの俳壇は、多くの凡庸なるものたちが、もっぱら数を頼んで、次々と俳句形式に恥辱を与えている時代である。しかも、いちだんと悪いことに、これほど俳句形式を汚辱にまみれさせながら、それについて何も気づいていないのであった。むしろ、それを時に気づかせるかもしれぬような批評の存在を、つとめて忌避してきたのである。
(『俳句研究』1978年2月号・編集後記)
『円錐』第57号(2013年4月31日)の「特集・高柳重信」にある横山康夫「批評の精神と表現の一回性」から、高柳重信の一文を、誠に恐縮ながら孫引きさせていただきました。

ここで「数に頼んで」いるのは、「俳壇」にある人たち、という色合いが濃く、ある種選ばれた「俳人」「作家」に向けられた感が強い。少なくとも、町の公民館で句会を楽しみ、新聞や雑誌への投稿をがんばっている俳句愛好者たちに向けられた感じはありません。

ところが、35年を経過して、(同じ『円錐』同号の「アンケート・この30年で変わったこと変わらなかったこと」、山田耕司の回答と照応させるなら、80年代のマス化の波をくぐり向けたそののちの現在)、俳壇は俳句世間へと融解し(俳句世間の「俳壇」化)、俳人も俳句愛好者も、作家もシロウトも、それは自称に過ぎないでしょうと、という状況。言い換えれば、「汚辱」は、選ばれた作家だけでなく、俳句に関わる人すべてに無縁ではない、ダイナミックな状況が、いま、というより、本来、当時も、いつの世も、それがあったと、いうことなのだと思いますが。

ただし、私自身は、俳句の「易きに流れる」部分は、否定しておらず、むしろ、そこを逆手にとって豊かにしていくしかないんじゃあないの、という思いもある。「凡庸」な人を排除すれば、「俳壇」は素晴らしいものになるかというと、それはブンガク的、ゲイジュツ的な理想主義でありすぎる感(凡庸な人が、凡庸じゃない句をつくってしまうかもしれないのが、俳句ですから)。

だから、俳句をつくりたい人、つくろうとする人には、「おきばりやす」と、関西風にイイカゲンなことを申し上げるのを常としています。

で、この午後、まさにこれから、私は、自分がお世話している句会に参加し、10や20の俳句はつくるつもりなのですよ。ここは(笑)で占めるべきところ。


ひとつ但し書き(というか言い訳)がいるのは、これまで「つくる」という語で言っているのは、発表、他人の目に触れさせることを含んでいる。発表の場が増えていること(インターネット普及、同人誌の大量発生等々)は、人がひとり俳句を(大量に)つくることとは、かなり事情が違い、いわば大量に供給されるこの状態が、まさに、ということ。

つまり、生産と供給は、違う。

言い換えれば、つくることと、それを読ませる(読んでもらう)ことは、違う。

それを含めての話。


ところで、上掲『円錐』の「特集・高柳重信」にはおもしろい記事が多く、例えば、山田耕司さんの
「婚活のようなポエムを繁殖させるために彼は叫んだわけではない」
なんて、タイトルだけでそそられるものがあるじゃないですか?

「ポエム」という語はいつからか罵倒語のポジションを獲得しているのですね。そのへんの事情にも、この記事は触れています(「歌う」という語の記事内での設定には、すこし抵抗がありましたけれども)。

ここで、「供給」という語の関連語として「繁殖」が加わったわけです。

「おまいら、ポエムを大量に繁殖させてんじゃねえよ」というわけで、これもまた感じの悪いセリフなので、気軽に言ってはなりません。

なら、どうするか?

とりあえず、ちょっと、落ち着きましょうか。

「物資がなくなるんじゃないか、いまのうちに俳句をつくっとかないと」 てな感じの、オイルショック後のトイレットペーパーか、俳句か、わからないような焦燥感(あるいはヤル気満々)は、ムダだし、不要ということで。

2013/06/20

■「ビッグマックとナイキがあれば満足という人が99パーセントを占める世の中なんて絶対に認めたくない」という女の子

…が主人公の映画『ゴーストワールド』(2001年/テリー・ツワイゴフ監督)がとてもおもしろかった。

人気コミックの映画化だそうで、この映画、まったく知りませんでしたが、当時、アメリカにも日本にも熱狂的なファンがいたのだろうなあ。

アメリカの田舎町。高校卒業後、いわゆる進路もなく、世の中と自分のミスフィット(不適応)をギシギシ軋ませながら、SPレコード蒐集家の中年男性(スティーヴ・ブシェミ!)という違ったタイプの不適応者に関心を寄せる主人公役のソーラ・バーチという女優が抜群にいい。のちに大人気女優となる友人役、スカーレット・ヨハンソンがかすんでしまうほど、いい。

世の中とうまく折り合いをつけられないとくに若い子の魅力。その時期、身体的・性的にも自分を持て余して未整理な感じが、主人公のファッションも含めてよく映像化(イコン化)されている。

昨今よく言われる「こじらせ」というのとは違う(こじらせは内的な感じが強く、年齢的にはもうすこし上からの症状・現象?)。いわば「軋み」「軋ませ」。

ああ、いやだいやだ、わたし、どうすればいいんだろう?という、世の中や人生のとばぐちに立ったときのあの感じは、時代にかかわらず青春物語、青春映画だなあ、と。