月評担当の中堅俳人先生たちも相手が句歴が浅いと見るやたちまち上から見下ろすように「まだ俳句の体になっていないのが惜しまれる」なんてことを言うていますが、(…)月評に限らず、「中堅」に限らず、「先生」に限らず、よく目にします。
俳人劣化のなげき:かわうそ亭のコメント欄
≫http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2009/11/post-7511.html
新参に厳しい。これはいいのです。しかしながら「俳壇」とやらの内部、内輪には、甘い。ハードルの高さがぜんぜん違う。全部が全部というのではないのですが、その傾向が顕著。これは昔からよく言われていることです。
「俳壇」の成員にはパーティやらで顔を合わすことがあるが、新参者にソレはない、といったアタマがあって、大きな差になるのでしょうか。あるいは、包装紙ですでに予見が与えられてしまうのでしょうか。
個人として見れば、そんなに尊大な人ばかり、厚顔な人ばかり、通俗ばかりではないと思うのですが、なんでこうなっちゃうんでしょうね。「俳句を語る」という機会や場に、歴史的に醸成された空気があるのかもしれません。どのように?かは、また考えてみることにします(「選」や「評価」から始まり、そこから抜けられないとか、いろいろ)。
いずれにせよ、批評が不在のまま、評価、それも狭量でナマクラな評価が蔓延しやすいところです。俳句世間というのは。
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