「ここがその現場なんです」と福田若之。
「その」とは、この句の出来事。
ベンツに轢かれてごめんなさいごめんなさいごめんなさい 若之『自生地』(2017年8月)
JR国立駅の北側をぶらぶら、「自生地」の舞台をたどる、というわけではないが、若之とふたり散歩した。なんの変哲もない住宅地の角にさしかかったとき告げられたのが、冒頭のセリフだ。
ほぉ、実話だったのか。
あはは。悲惨。
実話だろうが、ありがちなネタだろうが、どっちだってかまわないようなものだが、まぎれもなく事実だったことにはそれなりの意味がある。
自伝小説のようなあの句集『自生地』に、フェイクはなく、正味の自伝であること、ひたすらに一人称の俳句群であることには、それなりの意義がある。
いない姉は金魚に唄わない死なない 同
虚構の材料として伝統的に頻繁な「姉」(妹はさらに)は、いないのだから、歌も死もない。ここに虚構はいっさいない。この句集の途中、虚構めいたシークエンスもまた虚構ではなくしっかりとノンフィクションなのだと、小さな声で宣言するかのように。
その午後の散歩は、エックス山までは足をのばせず、彼がよく通った児童館の前を通り過ぎ、いまは別の家族が住んでいる生家(育った家?)をしげしげと眺めた。
こんどは自転車があるといいね、若之くん。もうすこしだけ遠くまで行こう。
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