週刊俳句は今年中に297号を数え、来年1月には第300号を迎えます。1号も落ちずに続いてきたことはエラいことです。
今年を振り返ると、当番の一人として、いろいろな人に記事を書いてもらえたという意味で、まずまず仕事をした感じですが、自分自身はあまり書いていないです。
句集評などをポツポツ書いたほかは、ウラハイの「コモエスタ三鬼」もずいぶん長いこと書いていないし、「真説温泉あんま芸者」シリーズは《第9回 俳句のなかの「私」》のみ(《第10回 引用のマナー 法や規則の以前に》 は昔の記事の転載)。
来年は、もう少し書きたい所存であります。
「自然」
「ルサンチマン」
「コンテクスト」
このへんを「真説温泉あんま芸者」シリーズの記事企画として、いま並べておけば、気力が出るかもしれませんので、挙げておきます。
「自然」は、橋本直さんの週俳での連載(転載)、《俳句自然 子規への遡行》が参考になる。
「ルサンチマン」は、どうもみなさん、ちょっと違う意味でお使いになっているようですね、という話。
「コンテクスト」はすでにしばしば言及しているけれど、これって大事よ、という話。
…になるかなあ、と。
まあ、のんびり行きましょう。
週刊俳句は来年も、それ以降も続くでしょうから。
●
2012/12/27
2012/12/26
美しい日本語 vs 美しくない外国語
『俳句界』2013年1月号をめくっていたら、こんなものが。
「美しさ」について語る言説が「醜悪」となる例はめずらしくないけれど、のっけからこれだから堪らないです。
何語が美しいとか、何語が美しくないとか、あるいは「西欧の言語の大部分」と言っておきながら「フランス語は」というシッチャカメッチャカに始まり、「このお二人、何をアホウなことをおっしゃっているのでしょうか?」つうような対話が以降も続きます。たった3ページで終わっているのは、対談させてみたものの、さっぱり使えなかったという編集上の事情と拝察いたしました。
「美しい日本語」とか「美しい日本」とかという切り口からは、ロクなものが出てこないということですね。
「ことば」は美しいかもしれないです。美しい瞬間があるかもしれません。その「美しさ」とは何だろう? その「瞬間」はどのように訪れるのだろう? と、ドイツ人と会話したことも叱られたこともない私、「西欧の言語」を知らない私、それどころか日本語もあまり知らない私は、貧弱なアタマを絞って、ことばの美しさについて、誠実に考えていこうと思いましたですよ。
●
日根野 英語、ドイツ語など西洋の言語と比べて、日本語は美しいと言いますか心地よいですね。これ、「美しい日本語」という特集のなかの「美しき日本語 音声表現考察対談 八木健(俳人・元NHKアナウンサー)×日根野聖子(俳人)」の冒頭。
八木 それは音楽アクセントだからです。西欧の言語の大部分は強弱アクセント、日本語やフランス語は音楽アクセントです。ドイツ人と話していると叱られているみたいです。
「美しさ」について語る言説が「醜悪」となる例はめずらしくないけれど、のっけからこれだから堪らないです。
何語が美しいとか、何語が美しくないとか、あるいは「西欧の言語の大部分」と言っておきながら「フランス語は」というシッチャカメッチャカに始まり、「このお二人、何をアホウなことをおっしゃっているのでしょうか?」つうような対話が以降も続きます。たった3ページで終わっているのは、対談させてみたものの、さっぱり使えなかったという編集上の事情と拝察いたしました。
「美しい日本語」とか「美しい日本」とかという切り口からは、ロクなものが出てこないということですね。
「ことば」は美しいかもしれないです。美しい瞬間があるかもしれません。その「美しさ」とは何だろう? その「瞬間」はどのように訪れるのだろう? と、ドイツ人と会話したことも叱られたこともない私、「西欧の言語」を知らない私、それどころか日本語もあまり知らない私は、貧弱なアタマを絞って、ことばの美しさについて、誠実に考えていこうと思いましたですよ。
●
2012/12/25
某日日記 至福その他
十二月某日
週刊俳句・第296号に「近恵 ひとり落選〔×4〕展」、今年1年、落選した4作品、計120句を一挙掲載。
そのうち自分も参加したことがあって親しみのある「豆の木賞」落選作品「まばたき」20句をまず読む(豆の木賞は互選。1人6点持ちで3作品以下に点を割り振る)。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/4_5879.html
えっ? これ、いいじゃないですか。豆の木賞を受賞しなかったんですね。
出だしの4句がいいし、全体に、いい。ポニーテールの句と人形の句と稔り田の句以外はぜんぶ、悪くない(褒め言葉です。ちょっと上から目線になっちゃってますが、そこは気にせず)。《膨らんだ桔梗朝を待っている》は「きちこう」と読ませるから、こうなるんでしょうけれど、「ききょう」なら、いろいろと改稿が進みそうです。あとは「膨らんだ」の「だ」はどうなの?とか、いろいろ。
落選の理由を考えると、ご本人が自覚されているだろうと思いますが、コレっていう一句がない感じでしょうか。それにしても、私にはじゅうぶんに愉しい20句でした。
虫の夜の電柱ことごとく斜め 近恵
来年の「ひとり落選展」は、ぜひ120句超えを、と。
十二月某日
山田露結句集『ホームスウィートホーム』の附録「裏悪水14句」で解説を書かせていただいた、その肩書が「ウラハイ=裏「週刊俳句」運営管理人」とあるのを見て、「とうとう週刊俳句をクビになったのか?」との問い合わせが…。「とうとう」は余計ですよ、と答える。
十二月某日
くにたち句会。いつも利用させてもらっているキャットフィッシュが「はがきゑ展」ということで、急遽、句会場所をロージナ茶房に変更。
句会後は、角上魚類で買ってきたお刺身やら博多華味鳥からいわゆる「お取り寄せ」(ぷっw)の水炊きやら、果ては白いご飯に柚子ちりめんをかけたのやら、いろいろ、悪魔のように食す、ワインやら日本酒を飲す。
句会後は例によっていろいろな話題に。「××の犬か!」という言い回しが流行の兆し。来年は「俳壇の犬」「結社の犬」「××誌の犬」という呼称を、当該の俳人に積極的に用いたい所存。
十二月某日
中野のルノアールで年に4回の句会に。河童や尻子玉といった句がどっと出てくる、ちょっと変わった句会。
十二月某日
スチューベンという青森産の素晴らしく甘い葡萄をいただく。至福。
週刊俳句・第296号に「近恵 ひとり落選〔×4〕展」、今年1年、落選した4作品、計120句を一挙掲載。
そのうち自分も参加したことがあって親しみのある「豆の木賞」落選作品「まばたき」20句をまず読む(豆の木賞は互選。1人6点持ちで3作品以下に点を割り振る)。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/4_5879.html
えっ? これ、いいじゃないですか。豆の木賞を受賞しなかったんですね。
出だしの4句がいいし、全体に、いい。ポニーテールの句と人形の句と稔り田の句以外はぜんぶ、悪くない(褒め言葉です。ちょっと上から目線になっちゃってますが、そこは気にせず)。《膨らんだ桔梗朝を待っている》は「きちこう」と読ませるから、こうなるんでしょうけれど、「ききょう」なら、いろいろと改稿が進みそうです。あとは「膨らんだ」の「だ」はどうなの?とか、いろいろ。
落選の理由を考えると、ご本人が自覚されているだろうと思いますが、コレっていう一句がない感じでしょうか。それにしても、私にはじゅうぶんに愉しい20句でした。
虫の夜の電柱ことごとく斜め 近恵
来年の「ひとり落選展」は、ぜひ120句超えを、と。
十二月某日
山田露結句集『ホームスウィートホーム』の附録「裏悪水14句」で解説を書かせていただいた、その肩書が「ウラハイ=裏「週刊俳句」運営管理人」とあるのを見て、「とうとう週刊俳句をクビになったのか?」との問い合わせが…。「とうとう」は余計ですよ、と答える。
十二月某日
くにたち句会。いつも利用させてもらっているキャットフィッシュが「はがきゑ展」ということで、急遽、句会場所をロージナ茶房に変更。
句会後は、角上魚類で買ってきたお刺身やら博多華味鳥からいわゆる「お取り寄せ」(ぷっw)の水炊きやら、果ては白いご飯に柚子ちりめんをかけたのやら、いろいろ、悪魔のように食す、ワインやら日本酒を飲す。
句会後は例によっていろいろな話題に。「××の犬か!」という言い回しが流行の兆し。来年は「俳壇の犬」「結社の犬」「××誌の犬」という呼称を、当該の俳人に積極的に用いたい所存。
十二月某日
中野のルノアールで年に4回の句会に。河童や尻子玉といった句がどっと出てくる、ちょっと変わった句会。
十二月某日
スチューベンという青森産の素晴らしく甘い葡萄をいただく。至福。
2012/12/24
2012/12/19
七七が付いてしまう俳句
自分の俳句に七七を付けられるのを嫌がる、あるいは怒る人もいるので、そんなに気軽に七七を付けちゃあいけないのですが、でも付けちゃう、という話題です。こういうのは最初に断っておくのがいい。
なるほど、万能でもない、と。
いま話題の『俳諧曾我』がらみで、こういうのはどうでしょうか。
麿、変? 死して屍拾うものなし
前半は高山れおな『荒東雜詩』より。
●
七七が付いてしまう句はダメな句、というのも昔からよく言われるようです。以前にも話題にしましたが、ダメ句判定機として使用される七七は、「昼のおかずにコロッケを買う」とか「それにつけても金の欲しさよ」。
でも、これって、どうなんでしょう。七七を付けてうまくハマるようならダメ、そうじゃなければダメじゃない句、というのは、ある種、俳句への幻想のような気がします。つまり、どんな句にも、付けようと思えば付いてしまう。
試しに……と考えているうちに、「昼のおかずにコロッケを買う」が素晴らしい感じで付いてしまう句群を見つけました。
鴇田智哉さんが「あるきだす言葉たち」という新聞の俳句コーナーに発表した作品「丘にゐた」を眺めていると、どの句も、コロッケと相性がいいような気がしてきたのです。
ひとかげと九月の丘で入れかはる昼のおかずにコロッケを買ふ
灯台になりたい秋は目をつむり昼のおかずにコロッケを買ふ
丘にゐたときとは違ふいわし雲昼のおかずにコロッケを買ふ
元の俳句とはまた違う興趣が湧くような気がしてなりません。
七七が付く句はダメというのは間違いで、実は、七七が付かない句はダメ、ということではないのか。
ちがうか。
鴇田智哉さんが、七七を付けられると怒る人でないことを祈ります。
●
「死して屍拾うものなし」は何にでも付けられるかと思ったが、意外とぴったり来る俳句を思いつかない。
— 関悦史さん (@Seki_Etsushi) 12月 17, 2012
なるほど、万能でもない、と。
いま話題の『俳諧曾我』がらみで、こういうのはどうでしょうか。
麿、変? 死して屍拾うものなし
前半は高山れおな『荒東雜詩』より。
●
七七が付いてしまう句はダメな句、というのも昔からよく言われるようです。以前にも話題にしましたが、ダメ句判定機として使用される七七は、「昼のおかずにコロッケを買う」とか「それにつけても金の欲しさよ」。
でも、これって、どうなんでしょう。七七を付けてうまくハマるようならダメ、そうじゃなければダメじゃない句、というのは、ある種、俳句への幻想のような気がします。つまり、どんな句にも、付けようと思えば付いてしまう。
試しに……と考えているうちに、「昼のおかずにコロッケを買う」が素晴らしい感じで付いてしまう句群を見つけました。
鴇田智哉さんが「あるきだす言葉たち」という新聞の俳句コーナーに発表した作品「丘にゐた」を眺めていると、どの句も、コロッケと相性がいいような気がしてきたのです。
ひとかげと九月の丘で入れかはる昼のおかずにコロッケを買ふ
灯台になりたい秋は目をつむり昼のおかずにコロッケを買ふ
丘にゐたときとは違ふいわし雲昼のおかずにコロッケを買ふ
元の俳句とはまた違う興趣が湧くような気がしてなりません。
七七が付く句はダメというのは間違いで、実は、七七が付かない句はダメ、ということではないのか。
ちがうか。
鴇田智哉さんが、七七を付けられると怒る人でないことを祈ります。
●
2012/12/17
【再】くにたち句会〔12月〕のお知らせ
前にちょっとお伝えしましたが、くにたち句会のお知らせを、あらためて。
2012年12月23日(日)14:00 JR国立駅南口集合
句会場所:キャットフィッシュ(予定)
10題程度の席題。
よろしければ句会後の飲食もご一緒に(会費アリ)
はじめての方もひさしぶりの方も御常連さまも、よろしくどうぞ。
2012年12月23日(日)14:00 JR国立駅南口集合
句会場所:キャットフィッシュ(予定)
10題程度の席題。
よろしければ句会後の飲食もご一緒に(会費アリ)
はじめての方もひさしぶりの方も御常連さまも、よろしくどうぞ。
2012/12/12
わが家
「増殖する俳句歳時記」のウェブマガジン「ZouX」の第308号(2012年12月8日号)に
「西一丁目」8句を掲載していただいております。
≫ http://zouhai.com/ZouX.html
「西一丁目」というタイトルの末尾には「1980」と付けるべきだったかもしれません。その時期の事や気分でまとめました。
●
ということで、山田rockets露結さんの句集が出たんですね。『ホームスウィートホーム』ですと。なんとカッコいい書名でしょう!
カバーの絵(御中虫さん)は、前に見たことがある気がします。そのときも思いましたが、抜群です。
帯の中原道夫さんの文句(跋から抜粋)も、また抜群ですね。
私は附録の裏悪水句集の解説を書かせていただきました。裏悪水は、いま考えても、奇跡です。この句集を手に取ったら、本篇はもちろん、裏悪水の14句も楽しんでもらいたいなあ。
●
「西一丁目」8句を掲載していただいております。
≫ http://zouhai.com/ZouX.html
「西一丁目」というタイトルの末尾には「1980」と付けるべきだったかもしれません。その時期の事や気分でまとめました。
●
来た! instagr.am/p/TCivpsnguX/
— rocketsさん (@rockets_yamada) 12月 10, 2012
ということで、山田rockets露結さんの句集が出たんですね。『ホームスウィートホーム』ですと。なんとカッコいい書名でしょう!
カバーの絵(御中虫さん)は、前に見たことがある気がします。そのときも思いましたが、抜群です。
帯の中原道夫さんの文句(跋から抜粋)も、また抜群ですね。
私は附録の裏悪水句集の解説を書かせていただきました。裏悪水は、いま考えても、奇跡です。この句集を手に取ったら、本篇はもちろん、裏悪水の14句も楽しんでもらいたいなあ。
●
2012/12/08
「つづきもの」の愉しみ
(歌集の話題は小早川忠義『シンデレラボーイなんかじゃない』以来です)
田中槐『サンボリ酢ム』(2009年・砂子屋書房)という歌集は、落掌する前から書名が気になっていました。
酢?
この部分もそうなのですが、象徴主義というもの、自分が俳句を齧るようになってから、気になるテーマではあったので。
その気になるというのは、枇杷や柿の実ではなく、種のようなものとして、なわけですが、はじめに言っておくと、この枇杷の種としての「サンボリスム」への関心が、この歌集によって、なにか解決とか進展を見たのではありません。
で、この本を読んで、ひとことでいえば、とてもおもしろかった。
歌が集まって歌集、というのとはちょっと違います。歌が集まった「連作」が集まった本。だから「歌集」というより「連作集」です。
帯文に、
実際、連作ひとつひとつが掌編小説から中編小説のようで、自分が今まで読んだ句集や(あまり読書体験のない)歌集と比べて、読んだときのボリューム感がある。だから、最初にひと通り読んでから、ときどき引っ張りだしてきて、拾い読みしています。
こういう場合、どんなふうにおもしろいのかを伝えるのに、歌を引くべきなのでしょうが、連作としてのおもしろさなだけに、歌をいくつか引いて済むというものでもない(この本の書評って、どんな引用のしかたをしているのでしょうね)。
まあ、一首も引かないのもヘンなので、例えば、連作「尼寺へゆく」は、ちょっとした思い出話の前振りと引用から、
かと思うと、陸上部入部から箱根マラソンまでの物語であるとか、「さうだ」と思い立って京都へ出かけたりだとか、少年犯罪をたどったりだとか、飯島愛のブログの引用をさしはさみつつ、その死が描かれるだとか。
楽しみは尽きないのですよ。
●
こういうことが俳句でもできないものだろうかと、まあ、これは軽い夢想として言っているのですが、自分の場合、この歌集、「俳句の隣にある短歌」を読む、というより、小説を読んでおもしろがる自分が『サンボリ酢ム』を読んでいる感じなので、俳句と結びつけるのは、どだい無理な話かもしれません。
(連作集ということでは、関悦史『60億本の回転する曲がった棒』に思いが到ります。あるいは最近出た高山れおな『俳諧曾我』)
以前、『にんじん 結婚生活の四季』というのをウラハイに掲載してもらったが、これも連作といえば連作。9句で1年だから駆け足なんてものではない、映画でいえば予告編みたいな感じか。こうではなくて、それ自体が短編映画のような連作がおもしろいのではないか、と。
例えば10句作品(週刊俳句に多い)も、連作っぽいものはある(例えば、野口る理「実家より」10句 週刊俳句・第121号 2009-8-16)。それらと決定的に違うものをイメージしているのではなくて、〔つづきもの〕という見せ方を強く意識したようなものができないかなあ、と、漠然と思っているわけです。
それは一人でやる連句みたいなものかもしれないし、もっとコンセプチュアルなものかもしれない。まあ、ゆっくりのんびり考えておくことにします。
●
田中槐『サンボリ酢ム』(2009年・砂子屋書房)という歌集は、落掌する前から書名が気になっていました。
酢?
この部分もそうなのですが、象徴主義というもの、自分が俳句を齧るようになってから、気になるテーマではあったので。
その気になるというのは、枇杷や柿の実ではなく、種のようなものとして、なわけですが、はじめに言っておくと、この枇杷の種としての「サンボリスム」への関心が、この歌集によって、なにか解決とか進展を見たのではありません。
で、この本を読んで、ひとことでいえば、とてもおもしろかった。
歌が集まって歌集、というのとはちょっと違います。歌が集まった「連作」が集まった本。だから「歌集」というより「連作集」です。
帯文に、
連作ごとに「私」が再起動する、短篇集のような歌集だ。(斉藤斎藤)とあります。「再起動」というのが大事なところのようで、そういえば、連作ごとにちょっと感触の異なる語り手が現れる感じです。
実際、連作ひとつひとつが掌編小説から中編小説のようで、自分が今まで読んだ句集や(あまり読書体験のない)歌集と比べて、読んだときのボリューム感がある。だから、最初にひと通り読んでから、ときどき引っ張りだしてきて、拾い読みしています。
こういう場合、どんなふうにおもしろいのかを伝えるのに、歌を引くべきなのでしょうが、連作としてのおもしろさなだけに、歌をいくつか引いて済むというものでもない(この本の書評って、どんな引用のしかたをしているのでしょうね)。
まあ、一首も引かないのもヘンなので、例えば、連作「尼寺へゆく」は、ちょっとした思い出話の前振りと引用から、
かつてかのハムレット氏ののたまふに「尼寺へゆけ」尼寺はいづこと歌われ、横浜駅を経て横浜港へ。そこに「恋のようなもの」もちらちら見える。
かと思うと、陸上部入部から箱根マラソンまでの物語であるとか、「さうだ」と思い立って京都へ出かけたりだとか、少年犯罪をたどったりだとか、飯島愛のブログの引用をさしはさみつつ、その死が描かれるだとか。
楽しみは尽きないのですよ。
●
こういうことが俳句でもできないものだろうかと、まあ、これは軽い夢想として言っているのですが、自分の場合、この歌集、「俳句の隣にある短歌」を読む、というより、小説を読んでおもしろがる自分が『サンボリ酢ム』を読んでいる感じなので、俳句と結びつけるのは、どだい無理な話かもしれません。
(連作集ということでは、関悦史『60億本の回転する曲がった棒』に思いが到ります。あるいは最近出た高山れおな『俳諧曾我』)
以前、『にんじん 結婚生活の四季』というのをウラハイに掲載してもらったが、これも連作といえば連作。9句で1年だから駆け足なんてものではない、映画でいえば予告編みたいな感じか。こうではなくて、それ自体が短編映画のような連作がおもしろいのではないか、と。
例えば10句作品(週刊俳句に多い)も、連作っぽいものはある(例えば、野口る理「実家より」10句 週刊俳句・第121号 2009-8-16)。それらと決定的に違うものをイメージしているのではなくて、〔つづきもの〕という見せ方を強く意識したようなものができないかなあ、と、漠然と思っているわけです。
それは一人でやる連句みたいなものかもしれないし、もっとコンセプチュアルなものかもしれない。まあ、ゆっくりのんびり考えておくことにします。
●
2012/12/07
よしっ!
誌上やら句集でなくてもウェブ上でも俳句(新作)は読めます。週刊俳句には毎週掲載されているし、ほかのサイトでも。例えば、スピカでは、運営3人が毎月、月初に新作を発表するのが常になっています。ウラハイの【ネット拾読】というコーナーでやってもいいのだけれど、まあ、自分のブログのほうが、気楽でいいので。
手袋の手にあはざるをよしとして 江渡華子 「よし」より。
手にフィットしてもフィとしなくても、どっちでも良し。簡単にいえば、プラス思考? 前向き? のんき? こういう考え方は、文句なしに良いです。
死は神に捧ぐものなり志も私も詩も 野口る理 「希臘行」より。
ほんまかいな。
と。
作者ではなく、ギリシャのことかもしれないが、それならそれで、そんなこと言うとる場合か、と、EU成員ではないし世界経済にさしあたり無縁な私も思ってしまう。
こういう句は《実は神に捧ぐものなり身もミーも》などとパロディをつくりたくなりますが、それはさておき、「詩」という語を、このところ、よく俳句で目にします。社会学的に考察してみたいところです。
恋幾度セーター脱げば静電気 神野紗希 「N」より。
《花びらの一つを恋ふる静電気 石田郷子》という句がかすかに響いてきます。この句は恋の句ではないのでしょうが、「恋」の一文字で、恋の雰囲気が漂う。
掲句は、性愛にまで踏み込んだ点、セーターと静電気を詠んだ凡百の句とは一線を画しています。
「幾度」の2字3音は、疑問/感嘆のフレージングとして効果大。「恋幾度」の直後にある「切れ」に注目です。
●
ウェブ上に発表された句も、これからはときどき取り上げたいと思います。
●
手袋の手にあはざるをよしとして 江渡華子 「よし」より。
手にフィットしてもフィとしなくても、どっちでも良し。簡単にいえば、プラス思考? 前向き? のんき? こういう考え方は、文句なしに良いです。
死は神に捧ぐものなり志も私も詩も 野口る理 「希臘行」より。
ほんまかいな。
と。
作者ではなく、ギリシャのことかもしれないが、それならそれで、そんなこと言うとる場合か、と、EU成員ではないし世界経済にさしあたり無縁な私も思ってしまう。
こういう句は《実は神に捧ぐものなり身もミーも》などとパロディをつくりたくなりますが、それはさておき、「詩」という語を、このところ、よく俳句で目にします。社会学的に考察してみたいところです。
恋幾度セーター脱げば静電気 神野紗希 「N」より。
《花びらの一つを恋ふる静電気 石田郷子》という句がかすかに響いてきます。この句は恋の句ではないのでしょうが、「恋」の一文字で、恋の雰囲気が漂う。
掲句は、性愛にまで踏み込んだ点、セーターと静電気を詠んだ凡百の句とは一線を画しています。
「幾度」の2字3音は、疑問/感嘆のフレージングとして効果大。「恋幾度」の直後にある「切れ」に注目です。
●
ウェブ上に発表された句も、これからはときどき取り上げたいと思います。
●
2012/12/06
ことの次第
〔ここは、それではない〕と〔ここが、そうなのかもしれない〕の中間のような心情が〔ここ〕から〔どこか〕へとたゆたうように移動していくのがロードムービーというふうにも言えて、けれども、『ことの次第』(ヴィム・ヴェンダース監督/1982年)のまったく動かない前半部分も、〔ここは、それではない〕と〔ここが、そうなのかもしれない〕の中間という意味ではロードムービーなのかもしれない、などと。
オン・ザ・ロードの途中の長い長いポーズ(一旦停止)。
映画制作費がショートして、ロケ地であるポルトガルの海岸で足止めを食うスタッフと俳優が、たまたま〔一旦停止〕の時と場所を共有したかのようであるのは、帰るところがあるような人がひとりも見当たらないせいか。
ま、それはともかく、初期のヴェンダース映画の何本かが、たまらなく好きであることが、いまさらのようにわかった。

オン・ザ・ロードの途中の長い長いポーズ(一旦停止)。
映画制作費がショートして、ロケ地であるポルトガルの海岸で足止めを食うスタッフと俳優が、たまたま〔一旦停止〕の時と場所を共有したかのようであるのは、帰るところがあるような人がひとりも見当たらないせいか。
ま、それはともかく、初期のヴェンダース映画の何本かが、たまらなく好きであることが、いまさらのようにわかった。

2012/12/05
2012/12/04
2012/12/02
壁画、法要、団体戦句会
壁紙の張り替えが決まったら、子どもに絵を描かせるのがいいです。
家に帰ってきたら、こんな(↓)ステキな絵が出来上がっていましたよ。
http://instagram.com/p/SrzvYKNOva/
たまたまやってきた近所のボウズによる壁画。来週にはなくなってしまうのが惜しいけどね。
●
「月天」の12月の句会は毎年、無臍忌法要(山本勝之の法要)と団体戦。
勝ちゃんが亡くなって、もう4年。数日前、用あってオクンチ(メール句会)の句会録を見ていたら、亡くなる一週間前に投句していた。
生前の霜夜に廻る洗濯機 勝之
病床にあったわけでもなく、まあまあピンピンしていたわけなので、この符合は不思議、というか、ちょっと切ない。けれども、毎年、友人が集まり、法要のあと仏前でわいわいと句会に興じるなんて、なかなかないぞ。幸せ者だ。わかってんのかな、勝之は。
●
俳句の団体戦は詳しく説明するのはめんどうなので簡単に言うと、4チームに分かれて総当たり戦。対戦チーム以外の2チームの全員が判定する。今年は1チーム6~7名。6句から7句の勝負で、12~13名が判定。
私が所属するチームは逆転優勝。わーい!
●
12月が始まった。
家に帰ってきたら、こんな(↓)ステキな絵が出来上がっていましたよ。
http://instagram.com/p/SrzvYKNOva/
たまたまやってきた近所のボウズによる壁画。来週にはなくなってしまうのが惜しいけどね。
●
「月天」の12月の句会は毎年、無臍忌法要(山本勝之の法要)と団体戦。
勝ちゃんが亡くなって、もう4年。数日前、用あってオクンチ(メール句会)の句会録を見ていたら、亡くなる一週間前に投句していた。
生前の霜夜に廻る洗濯機 勝之
病床にあったわけでもなく、まあまあピンピンしていたわけなので、この符合は不思議、というか、ちょっと切ない。けれども、毎年、友人が集まり、法要のあと仏前でわいわいと句会に興じるなんて、なかなかないぞ。幸せ者だ。わかってんのかな、勝之は。
●
俳句の団体戦は詳しく説明するのはめんどうなので簡単に言うと、4チームに分かれて総当たり戦。対戦チーム以外の2チームの全員が判定する。今年は1チーム6~7名。6句から7句の勝負で、12~13名が判定。
私が所属するチームは逆転優勝。わーい!
●
12月が始まった。
登録:
投稿 (Atom)