2014/08/20

■「質問タイム」にびっくり仰天:『川柳ねじまき #1』を読む・その3

「火曜日にはねじをまく」の合言葉で始まったねじまき句会(p12)。そこから生まれた『川柳ねじまき 』、ということで、句会の実況(瀧村小奈生氏による)が8ページにわたって詳細に報告されています。

読んでいておもしろいのは、例えば、《丁寧にかいてあるので迷います》という句で、なかはられいこ氏が「なんで『かく』が平仮名なのかなあって(…)」と指摘。瀧村氏が「言われてみれば、『丁寧』なんて画数の多い字をきっちり漢字表記にしている(…)」と言い添えるくだり。こういう細かく具体的な箇所がおもしろいのです。

私は、表記に凝りはしませんが注意するほうです。可読性や見た目を重視。この句なら、迷わず、《ていねいに書(/描)いてあるので迷います》とします。そうそう、「かいてある」はなんでだろうねえ、などと誌面と会話するように読み進む。

ところで、句会録は、きほん、つまらないと思っています。句会は読むもの・眺めるものではなく、やるものだから。

けれども、この「川柳」の句会録は、そこそこ楽しめました(ところどころ実況の昂ぶりについていけない自分がいましたが)。俳句の場合、選評のプロトコル(手順等)のようなものが自分である程度理解できているので、想定範囲内の展開になることが多い。川柳の句会は、プロトコルの部分で自分にとって新鮮なのかもしれません。

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で、です。びっくりしたのは、作者への「質問タイム」があること。合評がひとしきり終わって作者名が開いてのち、この質問タイムがある。

これは、俳句では、やりません。少なくとも、自分の参加する句会で、これは、ない。


作者が質問に答える、ということは、自解を強いるわけですよね、なんらかに。

互選・合評の句会(ふだん私が参加している句会)では、「その句については、全員が語る権利がある、ただし、作者を除いて」というふうに考えます。句会で自解の機会や過程を設けません。

句は、清記されたとたん、読み手(作者以外の全員)のものとなる。合評で何を言われようが、作者は黙って聞いている。作者が開いてから、読み手のアドバイス等に簡単に反応することはありますが、その際も自解的な文言は、みなさん、避けます。

そして句会が終わったら、その句は作者の手に戻ります。合評でのコメントを参考にするのも無視するも、その句を捨てるのも、改稿するのも、そのまま残すのも、作者が家に持って帰ってから自分で決めること、といったところです(ただし、結社の主宰のいる句会ではずいぶんと違います)。

その17音(前後)が、作者の書いた「すべて」だから、それに足すもの(自解)は1音もない、という捉え方。

こうした考え方は、自分の周囲だけでなく、俳句ではわりあい一般的だと思います。

「質問タイム」や自解は、あったほうがいいとか、ないほうがいいとかいうのではありません。句会それぞれのやり方です。ただ、「自解がある」句会と知ったら、自分は行かないとは思います。


というわけで、「質問タイム」にびっくり仰天したところで、次回に続きますが、あと残っているのは「ねじまき放談 川柳と俳句」。これについては掲載場所を、いまちょっと悩んでいます。ここか、週刊俳句か、その他か。

いずれにせよ、続くことは続きますので、それまでしばしのお別れです。



『川柳ねじまき #1』は定価500円。
ウェブサイトはこちら≫http://nezimakiku.exblog.jp/22222520/
問い合わせ先もそちらに記載があります。

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