ヒヤシンスじゃあどうすればよかったの 八上桐子
ヒヤシンスと未来と過去。
ところで、シアワセとかフシアワセについて考えたことがあるかないかといえば、あるのですけれど、否、考えるというほどはっきりしたものではなく、不定形に、なんとなくふわっと、思いのようなものに包まれるといったほうがいいか。
自分の中にシアワセがあるのか、シアワセの中に自分がいるのか。ずいぶんとスウィート過ぎる設問だが、このへんは実際ややこしい。シアワセは、生まれるものなのか、やってくるものなのか。
あるとき、これからさき、いつか、シアワセになるんだろうなあ、とか、このさきシアワセが訪れることはないんだろうなあ、とか、心情的には真逆のふたつのことが、しかし、それほど逆でもなく、日に日に移り変わったりする。
いまシアワセかどうかを訊かれて、イエスと答えようがノーと答えようが、どっちでもいいような気がして、とすると、この問題は大問題のようでいて、じつは、かなりどうでもいいことなのかもしれない。あくまで私にとって、ですが。
一方、あのとき、どうしていたら、いまは、いまよりシアワセだったのか。そういう問題の立て方も、あるにはあるが、これは、ちょっとせつなすぎるかもしれないですね。
前掲。2句とも、せつないにはせつない。
ところで、シアワセとかフシアワセについて考えたことがあるかないかといえば、あるのですけれど、否、考えるというほどはっきりしたものではなく、不定形に、なんとなくふわっと、思いのようなものに包まれるといったほうがいいか。
自分の中にシアワセがあるのか、シアワセの中に自分がいるのか。ずいぶんとスウィート過ぎる設問だが、このへんは実際ややこしい。シアワセは、生まれるものなのか、やってくるものなのか。
あるとき、これからさき、いつか、シアワセになるんだろうなあ、とか、このさきシアワセが訪れることはないんだろうなあ、とか、心情的には真逆のふたつのことが、しかし、それほど逆でもなく、日に日に移り変わったりする。
いまシアワセかどうかを訊かれて、イエスと答えようがノーと答えようが、どっちでもいいような気がして、とすると、この問題は大問題のようでいて、じつは、かなりどうでもいいことなのかもしれない。あくまで私にとって、ですが。
一方、あのとき、どうしていたら、いまは、いまよりシアワセだったのか。そういう問題の立て方も、あるにはあるが、これは、ちょっとせつなすぎるかもしれないですね。
前掲。2句とも、せつないにはせつない。
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