2009/10/21

『俳句』11月号はもうすぐ発売

週刊俳句の来週号・第131号に恒例(って言ってもまだ3回目)の「落選展」が掲載される。その頃、『俳句』誌の11月号が発売となって、選考の模様が座談会スタイルで掲載されるはず。これ、この数年、読んでいるが、どんな作品にどのように決まっていくのかには、実は、あまり興味がない。

選考結果について「なるほど」と納得することもないし、逆に「そうかなあ」と疑問に思うこともない。「俳句」について見識を持った選考委員が決めることで、つまりは決まるところへと決まっていくという、なんだかヘンな言い方だが、その程度に読んでいる。

で、何に関心があるのか、言い換えれば、どこに目が行くのかというと、選考委員各氏の「言葉」だ。

  新人賞選考会の議事録の話し言葉の美しくなさ  桝野浩一

美しくない言葉で語られることは、こちらのからだに入ってこない。語られる対象である俳句作品にとっても不幸なことだろう。いかに美しい言葉、魅力的な話し言葉でもって、俳句が、候補作品が語られるのか。今回も、読むとしたら、見るのはそこだけ。

角川俳句賞というもの、俳句を始めてからも存在自体知らなかったが(案外、そういう人、多いのでは?)、数年前、ふとしたきっかけで当該の選考記事を読み、やはり同じように初めて読んだという句友と話したとき、この「言葉」に話題が及んだ。美しさを欠いた言葉のあまりの多さ、「話し言葉の美しくなさ」に愕然として、友人は「芥川賞のように、各選考委員が選評を書くスタイルのほうがいいのでは」と言った。座談会形式はナマのおもしろさを伝えるサービス精神だろうと解したが、たしかに気持ちのいい読後感とは行かない、その点で友人と同意見だったのだが、「これはいったい何なのだろう」と不思議な思いもした。

いわゆるダメ出しやら辛口批評が「美しくない」というのではもちろんない。評価のプラスやマイナスにはかかわらない。また、このことは角川俳句賞に限らない。どんな賞の選考についても、読者は、ごくごく当然ながら「言葉」を読む。「言葉の美しくなさ」を味わおうという読者はいない。

今年は、どうでしょう?

というわけで、おそらく買うと思います。11月号。

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