『川柳ねじまき』第3号(2017年1月15日)より。
電柱と岸辺シローは出会えたか なかはられいこ
どうだったのだろう? 出会えたのか? と必要以上に親身にマジメに「結果」に思いをはせてしまうのは、どうしてだろう。
掲句は「岸辺」。岸部シロー(岸部四郎)の岸部とは字が違う。けれども、どうしたって「きしべ・しろー」は彼のことなのだ。
(岸辺の用字は、水際の危うさを呼び寄せる)
岸部シローのことは、ザ・タイガースでタンバリンを手に、隅っこのほうに立っていたときから心配している。私などが心配してもしかたがないことは承知の上で心配していた。
電柱くらいに出会えないはずがない、きっと出会えたはず。そう思いたい。
なかはられいこの20句作品「ととととと」には、
魚の腹ゆびで裂くとき岸田森 同
質問の最後に神田うのを置く 同
人名俳句の泰斗として(冗談だから真に受けないように)、目を止めざるを得ないが、これはもう重症化しており、次の見開きの最後の句、
加茂茄子に紺を充填する真昼 中川喜代子
の「加茂茄子」を、「かも・なすこ」と、人名に間違えてしまうという、われながら重篤。
それはさておき、「ととととと」に戻ると、
サイレンと水母いっぱい室内に なかはられいこ
くしゃみして猫はいっしゅん海になる 同
といった聴覚・視覚のマルチメディアによって、わからないようでよくわかる気がする〈この世の事態・世界のテクスチャ〉を伝える句が心に残りました。
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