俳句をやっている人は、俳句をやっていない人よりも、俳句を〈よく読める〉。って言いますよね。
〈よく読める〉という部分に含まれる込み入った事情は置くとして(まあ、句が「理解できる」という程度のざっくりした把握で話を進めます)、これ、一般に信じられているフシがある。
俳句世間のジョウシキは疑ってみるのが習い性なので、疑ってみるわけですが。
例えば、ここ…
≫2018年4月、雪もなく:川合大祐
https://blog.goo.ne.jp/syun-senryu-ina/e/d1271bc9b19190d968d10b60fa59fb58
…にもあるのですが、川柳を俳句に置き換えることができます。「(…)数十年川柳をやってきた人間でも、意味がつかめないんだから、川柳を知らない人が見たら、何が何だかわからないんじゃないか?」という部分。
はたしてそうでしょうか?
というのは、経験的に、というより、論理的に(というほど大袈裟なものではありませんが)。
A 俳句を作っていないときよりも、作り始めてからのほうが、俳句が〈よく読める〉ようになった
B 俳句を作っていない人よりも、作っている人のほうが、俳句が〈よく読める〉
Aは、わかる。個人それぞれの体験だから、それはそれでよい。自分でそう思うのだから、そうなのでしょう。しかしながら、AからBへは、論理的な溝があります。AだからBとは言えない。個人的な事象は必ずしも一般に敷衍できない。
この溝は、ほかの例を考えてみれば、すぐにわかります。スクワット100回やったら、早起きできるようになった。…からといって、スクワットやる人は早起き、とは言えない(例がヘン? ヘタクソ)。
とにかく、「俳句をやっている人は、俳句をやっていない人よりも、俳句を〈よく読める〉」、同時に「俳句をやっていない人は、俳句を〈よく読めない〉」という、俳句世間でよく言われるところのことを、私は信じていません。
ラヴ&ピース!
なお、俳句をたくさん読む人と読まない人では、読む人のほうが〈よく読める〉かもしれません。でね、俳句を作っている人が俳句をたくさん読んでいるかというと、これが、そうでもないんですよ。
俳句をやっていない人は驚くかもしれないけれど、自分の句にしか興味がないって人は、かなりいます。
もういっちょ、ラヴ&ピース!
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