感動を俳句にする、という発想が不自然に思われるのは、単に僕らが俳句を作りすぎるからというだけかもしれない。たしかに、そうかもしれない。
福田若之〔ためしがき〕感動について
http://hw02.blogspot.jp/2016/01/blog-post_19.html
河豚はいまでも人をドキドキさせるけどね。翌朝生きていたら、感動モノだけどね。
で、です。ここで、ふたつの相反する思いが、私の中に浮かび上がります。
1 作りすぎる私(たち)への戒め。
(人によって程度の差こそあれ)俳病ともいうべき(ここダジャレです)宿痾。作ることと発表する(他人の目に触れる)ことは別物はいえ、句集、雑誌(《「ああ、俳句がいっぱい載ってるなあ」という印象》は2007年4月、『週刊俳句』創刊準備号での話)、インターネット、SNS……、いたるところに俳句が溢れています。
ロケーションが豊富というだけではありません。句数も多いんだ、これがまた。
春はあけぼの五句にしぼつてくれないか 10key
2 ポジティヴな解釈。
例えばですよ、もしも句の数だけ感動があったのだとしたら、その人は、とっくに死んでいます。感動死(これはダジャレではありません)。心臓がもつはずがない。
ということは、感動がなくても句はつくれるのです。だから、俳人は感動死することもなく、句を過剰に作り続けるわけですが、これは、ひょっとしたら、「感動からの解放」ではないか。
「暮らしには人生には感動がなければいけない、あったほうがいい」という強迫からの解放です。
つくりすぎる句、氾濫する句群は、やさしく言ってくれているのです。「感動しなくてもいいんだよ」「感動などひとつもなく、日々なさけなく生きていていいんだよ」と。
で、このふたつの思いはずっと先まで共存していくんだろうなあ、と。
〔参照・過去記事〕感動?
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/12/blog-post_17.html
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