2009/10/31

政治を信じてはいけない

DIAMOND ON LINEで進行中のシリーズ、「若手学者が激論する!-経済学・政治学・社会学のコラボレーションで日本を変える」が、ひどくおもしろい。

昨日読んだのが「二大政党制は時代遅れ?「政権交代」の先にあるもの――あるべき政党政治とデモクラシーとは」。その締めが…
丸山眞男の言葉を借りれば、政治とは「悪さ加減の選択」にしかすぎません。政治に過大な期待をかけないこと、政治でもって世の中すべてがよくなると思わないこと、自分の実存を政治に明け渡さないこと。でも社会の利害を調整するために必要な営みとして政治を捉えて声をあげていくこと。きわめて当たり前のことのことですけど、でもこれが実は一番難しいんですよね。
「政治不信」という語が頻繁に使用されるのを、なんだかヘン、とずっと思っていた。選挙のとき、政治家もマスコミも、政治不信を嘆き、「信頼を取り戻す」と言う。こっちからすれば、それはぜんぜん違う。「え? 政治を信頼・信用していいの?」という感じ。信頼なんてしちゃあダメでしょう。

悪さ加減の選択。そういうことなんですね。すっきりした。

うっとり

オリベッティ・ラヴァーとしては、たまらなく嬉しい記事。
オリベッティ アーカイブス その1:東人雑記

「その1」とあるから続くんですね。にこにこ。

着るものに美しさを感じることはない(いいかんじとか、かわいらしいとかは思うけれど、「美」とは違う)。絵画(ファイン・アート)には、「ほおー!」とか「わっ!」と反応することがある。ある種のインダストリアル・デザインには、うっとりしてしまうのだ

2009/10/30

備忘録:価値と古典

http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/504

尻のふさがっている沼


藻琴=アイヌ語の「ムク、トウ」が転訛したもので、意味は「尻のふさがっている沼」。≫Wikipedia藻琴駅

2009/10/29

虹の摩周湖


歌謡曲のような摩周湖に、歌謡曲のように虹がかかる。そんなこともあるだろうという風景。

加藤和彦の死

すでに各所で話題になっているが、菊地成孔による追悼記事。

加藤和彦氏逝去
http://www.kikuchinaruyoshi.com/dernieres.php?n=091019025452
我々は、アンチエイジングなどしている場合ではない。大人という、非常に贅沢な演技が全うでき、老人という、非常に贅沢な本質が全うできる社会を取り戻すために、全セクション総力を上げて闘って行かねばならないのです。
自殺を「病」として社会が受け止めるべきこと、この社会における成熟・老いについて再考(再構築)すべきこと、このふたつを骨子として、いわめて示唆深いわけですが、傍系の話題として、加藤和彦のソロ三部作をいま聞いてみて、その成熟の「なさ」に気づくくだり、そのうちの1枚である「パパ・ヘミングウェイ」はよく聞いていただけに、個人的に興味深かったです。

2009/10/28

幸福はしばしばホラー


幸福駅(帯広市)保存駅舎の内壁・天井に、旅行者の貼り付けた紙片がびっしりと。

狂気じみてかなりホラーな景色。

2009/10/27

くにたち句会のお知らせ

11月1日(日) 14:00 JR国立駅南口 集合

通常の「月の最終日曜日」からズレ込みました。
当日は天下市(大学通りがお祭り状態)なので、そこを散歩。
たまには吟行句っぽく? 題詠もやるでしょう、きっと。

句会場所は、当日、なんとか、なんとなく。

ではでは。お気軽に参加ください。

(携帯電話etc連絡先は左上のprofileをクリック)

フランク永井

Woman(1982年)は名唱です。
http://kijitsu-haiku.blogspot.com/2009/10/1027.html

2009/10/26

ジェイルハウスな散歩


博物館網走監獄 入場料:大人1050円

2009/10/22

陰惨な対立

つまり、です。
格差が問題ではない。分断されつつあることこそこの国の深刻な問題である。
で、どういう分断かというと…
正社員vs派遣
専業主婦vs働く女性
子持ちvs子無し
老人vs若者
ワーキングプアvs生活保護受給者
公務員vs民間労働者
B層ネット右翼vs市民団体、労働組合、日教組
真のエリート支配層に利用されている
なるほどです。陰惨な対立。

「分断」がそれほど意図的とは思えないし、「支配層」が目に見えるわけではないが。

いろいろと静かに考えなくてはならないことがあります。それで、どう?と問われると困るのですが、ともかく、いろいろ。

歳時記・秋

いまひとつ秋らしくならないまま秋が過ぎていくような気もします。

2009/10/21

言説のトレイサビリティ

実名匿名論争じゃないけど:切込隊長BLOG
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2009/10/post-eeb5.html
要は、ある書き手が過去に/他にどんなことを書いているか、トレイサビリティのようなものが示されれば、匿名にも、(品質)保証や安心感が伴う。辿れるという要素は重要だろう。

アマゾンの書評も、これが大きな参考になる。評者がほかにどんな本について書いているかを見られる仕組みなので、例えば、星5つで絶賛しているその本のほかに書評がひとつもないなら、仕込みの提灯記事であるとほぼ断定できる。

『俳句』11月号はもうすぐ発売

週刊俳句の来週号・第131号に恒例(って言ってもまだ3回目)の「落選展」が掲載される。その頃、『俳句』誌の11月号が発売となって、選考の模様が座談会スタイルで掲載されるはず。これ、この数年、読んでいるが、どんな作品にどのように決まっていくのかには、実は、あまり興味がない。

選考結果について「なるほど」と納得することもないし、逆に「そうかなあ」と疑問に思うこともない。「俳句」について見識を持った選考委員が決めることで、つまりは決まるところへと決まっていくという、なんだかヘンな言い方だが、その程度に読んでいる。

で、何に関心があるのか、言い換えれば、どこに目が行くのかというと、選考委員各氏の「言葉」だ。

  新人賞選考会の議事録の話し言葉の美しくなさ  桝野浩一

美しくない言葉で語られることは、こちらのからだに入ってこない。語られる対象である俳句作品にとっても不幸なことだろう。いかに美しい言葉、魅力的な話し言葉でもって、俳句が、候補作品が語られるのか。今回も、読むとしたら、見るのはそこだけ。

角川俳句賞というもの、俳句を始めてからも存在自体知らなかったが(案外、そういう人、多いのでは?)、数年前、ふとしたきっかけで当該の選考記事を読み、やはり同じように初めて読んだという句友と話したとき、この「言葉」に話題が及んだ。美しさを欠いた言葉のあまりの多さ、「話し言葉の美しくなさ」に愕然として、友人は「芥川賞のように、各選考委員が選評を書くスタイルのほうがいいのでは」と言った。座談会形式はナマのおもしろさを伝えるサービス精神だろうと解したが、たしかに気持ちのいい読後感とは行かない、その点で友人と同意見だったのだが、「これはいったい何なのだろう」と不思議な思いもした。

いわゆるダメ出しやら辛口批評が「美しくない」というのではもちろんない。評価のプラスやマイナスにはかかわらない。また、このことは角川俳句賞に限らない。どんな賞の選考についても、読者は、ごくごく当然ながら「言葉」を読む。「言葉の美しくなさ」を味わおうという読者はいない。

今年は、どうでしょう?

というわけで、おそらく買うと思います。11月号。

2009/10/20

新しいとか古いとか

温故知新:Rocket Garden▼
http://yamadarockets.blog81.fc2.com/blog-entry-228.html
ほんと、そうですね。新しいとか古いとか、徹底的にどーでもいい。

俳句に限らないんだろうけど、俳句の場合。

退屈か退屈じゃないかのほうがまだしもどーでもよくない。だいじ。

例えば小説もそうでしょうか。新しい小説が読みたいわけではない。おもしろい小説が読みたい。新しい俳句なんて、いらない。おもしろい俳句が読みたいだけ。

2009/10/19

消息:きのこ

ウラハイ= 裏「週刊俳句」に「暮らしの歳時記・きのこ」を書きました。
http://hw02.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html

2009/10/18

人みな忌日をひとつずつ

サイト「毎日が忌日」の「今週の一句」、振り子さんの記事。
http://kijitsu-haiku.blogspot.com/2009/10/20091011-1017.html

最初の2パラグラフ、「生き死にを地続きと思えば」から「忌日への接近は実に俳句らしい」までの2パラグラフ。なるほどなー、と感心してしまった。

この「今週の一句」、どなたの記事にも言えることだが、選評よりむしろ、忌日を、ひいては人の生き死にをどう捉えるか、筆者それぞれの見解や心持ちがあらわれていて、興味深い。

2009/10/16

チンドン50年

八田木枯「世に棲む日々」10句(「週刊俳句」第119号・2009年8月2日)の後半5句はすべてチンドン屋の句。そこで思い出したのが、この句。

  鳥交る世にチンドン屋ある限り  八田木枯

所載は『汗馬楽鈔』(深夜叢書社1988)。1947年から1957年まで10年間、20代の句が収められている。

20代でこの句をつくったのち、週俳の5句は、半世紀以上にわたって温められた、あるいは半世紀以上ぶりに復活した題材ということになろうか。八田木枯さんの頭か心かの片隅に、そんなにも長いこと、チンドン屋が存在しつづけたという事実が、俳句うんぬん以前に、ひじょうに興味深いです。

漂泊といえば漂泊。で、ちょっと情けないかんじ。チンドン屋の哀切の質は、やはり独特。


参照記事≫羽田野令・ちんどん屋:ウラハイ

2009/10/15

にほんごであそぼ

ルリちゃんののたまうコニちゃん、大井さんのコメントで正体がわかりました。
これですね→http://www.youtube.com/watch?v=b4VJA2LeRV8

しかしです。「にほんごであそぼ」という番組、YouTubeで垣間見るだけで、凄いですね。

カッコいいんですけど? すごく↓


機会があったら、観てみましょう。

教育テレビ 月~金曜日 午前 8:00~8:10(10分)【再放送】 午後 5:05~5:15(10分)

サイコなルリちゃん

中嶋憲武さんの「ルリちゃん」がおもしろい。
http://hw02.blogspot.com/2009/10/blog-post_14.html

自分への問いが、ルリちゃんのなかで、すべて「あなたは~ですか?」に置き換わる。

サイコな話として、憲武さんは書いている。

怖いといえば、怖い。

2009/10/14

関西空港



演歌とソウルをミックスさせた「エンソル」。

なんか、もう、むちゃくちゃwww

2009/10/12

消息:ゼビウスなど

週刊俳句第129号で、「シューティングゲーム(クラシック)」をコンピってます。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/10/haiku-mp_11.html

2009/10/09

夜型人間

ええっと、例によって、記事タイトルは記事内容を反映しているのか、いないのか、わからないようなタイトルです。

音楽に関して、かなり雑食です。ジャンルについて、これが好き、これをよく聞く、などということはなく、おもしろければジャンルは問わない。でも、なぜか邦楽はほとんど聞かない。

なのに、Little Creatures というバンドは、この数年、そうとうに気に入って、数枚のアルバムをそうとう回数聞いている。



ひとつには音の隙間におもしろさがあること。歌が、たどたどしいぶん、前面に出てこず、楽器の音が楽しめるのも、好みに合っている。音楽は「音」を聞くものというアタマ。言葉を聞こうとは思わない。歌声や歌詞も大事だが、それらがテーマではない。だからだろう、若い時分、フォークソングなるジャンルが流行ったが、大嫌いだった(自分のなかでは「音楽」の範疇には入れていなかった)。

雪我狂流さんが、「日本のは、ロックといっても、ほとんどがフォークロックだよね」と言っていたが、至言(歌詞うんぬんだけじゃなくて、音もそう。このあたりはちょっと複雑)。加うるに、「日本のヒップホップ」と呼ばれるもののほとんどは(あまり聞かないけれど)、フォークソングに聞こえる。

リトル・クリーチャーズという日本人の男の子3人のバンドは、英語の歌詞ばかり。少なくとも「フォークソング」をやる気はないようだ。音の美味しさで勝負している気がする。

あ、昔は夜型でしたが、このところずっと朝型です。

2009/10/08

本人が決めればいいこと

実名推進派は人の気持ちがわからない人が多い。:ひろゆき@オープンSNS
要は、
匿名派=匿名・実名どっちもアリ(選択を認める)
実名派=実名じゃなきゃダメ(選択を認めない)
…ということで、ネット書き込みに関して、私などは「どっちもアリでいいんじゃないの?」と思う。

ただ、実名を匂わせる匿名(例:このあいだ週刊俳句の俳句甲子園関連の記事へのコメント)は、心理的に引っ掛かるものがありますが…(つまり嫌悪感)。

ところで、「実名でしか書いちゃダメ」という実名推進派のなかには「筆名もダメ」という人がいるようで、その場合、現実にどう扱うのか(どうチェックするのか)。実名チェックなんて、できる? ネットに書き込むのに保険証や免許証を提示するわけにもいかないし。

で、話はどんどん飛ぶのですが、選挙。投票場で、本人確認は「無い!」んですよね。あれは大いに不思議。ハガキを持っていれば、本人じゃなくても投票券がもらえるわけだ。レンタルショップでさえ、免許証とか提示するんじゃなかったでしたっけ。

ついでにもうひとつ話を飛ばすと、選択を認める/認めないの話は、いまちょっとした政治テーマになっている夫婦別姓。

夫婦別姓賛成派=別姓もアリにしようよ(選択を認める)
夫婦別姓反対派=同姓じゃなくちゃダメ(選択を認めない)

これも、どっちもアリでかまわないと思う。自分で決めてもらうということで、なにか不都合が生じるのだろうか。

またまたついでにいえば、同性どうしの結婚。これもアリでいいんじゃないの? 同性婚を望む人がたくさんいて、それでみんなに迷惑がかかるというわけでもないんだから、選択できるほうがいい。本人が決めればいいことでしょう。異性婚か同性婚かなんて。

2009/10/07

鏡の温度

冷房の効きすぎてゐる鏡かな  村田 篠
『雲』2009年10月号より。

句誌(結社誌・同人誌)は投句時期と刊行時期の関係から、どうしても二、三カ月ずれた俳句が載る。それはしかたがないのだが、なんか、手がないのかな、と思う。そのあたり、ウェブマガジンのアドバンテージがある。

さて、掲句。鏡と持ってきた。冷えた温度にも、鏡にも、不思議な感触。シンプルな語の、シンプルな連なりから、えもいわれぬ感興が生まれる。

俳句の醍醐味ざんす。

2009/10/06

「や」の上五

「○○や」と上五を「や」で切る場合、どうしても○○には季語が入ってしまう。と露結さん。

季語じゃないケースも探せばたくさんあるのだろうが、「おさまり」という点からも、圧倒的に季語が多い。ひょっとしたらルールがあるのかもしれない。

むかし、俳句を始めて1年くらいのときにつくった句。

  洗脳や蛇口の下の秋野菜

脳と野菜を「洗」で繋ごうとしたわけではないだろうが、何を思ってつくったのか、まったく憶えていない(きっと「洗脳」という言葉が使いたかったのだ)。長谷川裕さんには「物質や」という凄い上五の句があるが、所収の句集『彼等』がすぐに出てこない。

いま、10年以上が経過して、自分のつくる俳句にほとんど進歩がないものの、慣れは人並みにあるので、季語以外の「や」付き上五はなかなか出てこない。進歩はないのに、ムチャはできなくなっている。ということは、はっきりと退歩である。あーあと、ため息。一生懸命、ムチャをやんなきゃ、ざんす。

2009/10/04

消息:無人音楽

今週の週刊俳句・第128号でコンピります。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/10/haiku-mp.html

2009/10/02

新聞記事の著作権

苦境の新聞業界、アメリカで救済法案が立ち上がる見込み
(…)新聞社の権利を守るのにネットでの引用を制限する著作権法の改正とかが議論されるよりはよっぽどましで現実的な流れだと思うんですわ。
この「流れ」というのはNPO法人化に関する論議。報道機関というよりむしろ報道企業ってな感じの現状を考えると、NPO法人化はアリかもしれません。

で、話題は飛んで、新聞記事の著作権。(社)日本新聞協会は1997年時点ですでに声明を出してます。

ネットワーク上の著作権について――新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に

このなかの…
著作権法で「著作物に当たらない」とされている「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」とは、死亡記事、交通事故、人事往来など、単純な事実を伝える記事だけであり、ほとんどの記事には著作権が働いています。
という部分。主観や個人の見解を含まないニュース記事にも著作権はあるぞ、というものですが、そうなると、妙なことが起きませんか?

政府答弁について伝える記事でも昨晩の火事を伝える記事でもいいのですが、A社の記事がB社の記事の著作権侵害にあたる、という事態が起きはしませんか?

いえ、ちょっとした疑問に過ぎませんが、ふと思いましたです、はい。

2009/10/01

コスモス 池禎章さんの俳句

「麦」という俳句の会に所属していた頃、毎月、句誌(結社誌)が届くとすぐにめくるのが池禎章さんの5句。禎章さんは、もっとも敬愛する俳人のひとりであった。明治45年(1912年)生まれだから、その頃、すでに90歳を超されていた。

  私コスモスいつも離陸路着陸路  池禎章

この句、1981~1983年の作というから、70歳前後のときの句だ。高知県南国市の禎章さんを、知人(先輩俳人)とともに訪れたとき、空の低いところを旅客機が何度も飛んだ。この句は、禎章さんの暮らしそのものなのだと、そのとき知った(それまではファンタジー的なイメージで捉えていた)。

実際にお会いした禎章さんは、とても典雅で都会的な感じのする人だった(都会的か田園的か、住んでいる場所では決まらないようだ)。また飄々として軽やか、人への優しさに格別の気品が漂った。私はまず俳句に魅了され、そしてお会いして「リアルの池禎章」に魅了された。

余談めくが、この句が収められたのは『河口原』(1989年)。77歳にして第一句集という事実はすがすがしく、「そろそろ句集などを」と考えなくもない私に、ある種の自制と自省をもたらす。

第二句集は2001年、『卒寿』の書名のとおり、90歳を機にまとめられた。『卒寿』より気ままに数句。

  鮫食って棕櫚一本の枯れる景  池禎章(以下同)

  試みにゆすれば散ず辛夷のばか

  バイク売り払って手ぶら鳥渡る

  ハフハフと泳ぎだす蛭ぼく音痴

  蟷螂の七勝二敗ほどの斧

  見つづける時々アラヨッとて落花

  抱擁の出来そうに冬夕焼ける

池禎章さん、まだお元気だろうか。賀状のやりとりなどあるものの一昨年に「麦」を脱会した私には近況を知る術がない。禎章さんのことがふと気になりはじめている。

怒りのステテコ

ステテコにポケットが無い握りこぶし  遠藤野放
長谷川裕さんの「柏原和男の一句」(週刊俳句・第127号)に引いてある句。句そのものが「握りこぶし」のようにゴツゴツしている。怒りが座五にこめられているのだろうが、それだけでは読者としては息苦しい。ステテコから来る愛嬌のようなものが成分として混ざることで「よろしき俳句」となっている。

愛嬌はだいじ。

テンションのなかの弛緩。怒りや哀しみのなかの笑い。

あるいは自己戯画化。

自己戯画化とは、自分との距離をとれること。自分との距離がとれない人が書くものは、息苦しいだけでなく、暑苦しく、またしばしば痛々しいだけの〝自慰〟に陥る。