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もじりやパロディに大きな成功はあるのか?
風船が廊下の奥に立つてゐた 佐山哲郎
言わずと知れた渡辺白泉「戦争が廊下の奥に立つてゐた」のもじり。原句は、「憲兵が廊下の奥に立つていた」ではどうにもこうにもならないところを「戦争」と抽象化した手柄で、結果、抽象をを越えた質感をも備えてしまった。
掲句は、あえていえば擬人法。もじりを超え、擬人法を超え、なんともいえぬ気分を醸し出す。
もじり、とりわけパロディが、「しょせんパロディに過ぎない」のは、元の原典が持っている読みのフィールド内で読まれる、という限定性の故だ。掲句(風船)は、もじり(パロディ)であることを全身で言明しながらも、別のフィールドを生起させてしまった、というのは、誉めすぎだろうか。
白泉の「戦争が~」もいいが、「風船が~」は、もっといいと、まじめに考えておるわけです。はい。
ちなみに、もじり(パロディや本歌取りも含めて)と剽窃はまったく別物で、どこがいちばん違うかというと、作者が前提としていることが違う。
もじりは、元の作品を読者が知っていることが前提。
剽窃は、元の作品を読者が知らないことが前提。
あまりに当たり前の話だが、外形での区別は実は曖昧。作者の心の中は、以上の如く正反対。
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