いやいや、すごい的中といっていいんじゃないでしょうか。週刊誌各誌と比べても。
ひどいのがテレビ。開票が始まってからの予測がコレ。
この洋服屋から物語的な何かのはじまる予感を消すことはできない。饒舌になれば消えてしまうであろうその予感を、五七五という寡黙さが支えているようだ。なるほどです。饒舌と寡黙のあんばいが「こんなところに」句の興趣の度合いを大きく作用する。だが、五七五そのものに寡黙さが備わっているわけではないと、俳句をかじっているからだろうか、思ってしまう。この句にちょうどよろしき寡黙があるとすれば、「洋服屋」というチョイスがもたらす声の調子、気分のトーンだろう。
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2009/08/2009822-58d2.html
どのような政治的過失についても反省の弁を口にせず、すべての失態を他責的な言葉で説明し、誰に信認されなくても自分で自分を信認すれば足りる。/そういうわが風土病的欲望が行間から露出している。
マニフェスト :内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2009/08/20_1005.php
(…)うまくいかなくなったとたんに、「努力してるのか?」、「甘えてないか?」、「死ぬ気になってるか?」と問われはじめる。(…)/もうひとつの共通点は、これらの自己責任論的問いにはいずれも答えようがない、ということだ。努力が足りないんじゃないかと言われれば、そうかもしれないとしか答えようがない。甘えてるんじゃないかと言われたときも、死ぬ気になってないだろうと言われたときも、同じ。「甘えてない。死ぬ気になって努力している」と答えられる人なんて、いないでしょう。とりあえず「うまくいっている」人だって。
「上から目線」の自己責任論が、自分を責め抜き疲れ切っている弱者を黙らせさらに痛めつける
やがて高柳君は、波郷や湘子がそうしたように、青春詠の時代を遠い故郷として捨て去り、見晴るかす荒地に足を踏み出すだろう。(小川軽舟「序」;『未踏』)ちなみに、この序文全体の、甘美すぎるかもしれない(賛辞です)美しい筆致は、この句集を読むときの空気をいくぶん決定づける。先に読んじゃダメです(笑
「あるある的な読み」だろうが「道徳的・教訓的な読み」だろうが「現代思想的な読み」だろうが、カフカの小説の字義のインパクトを削減し、未知のものを既知のものに置き換える作業になりかねない。(…)やっぱり、朝起きたら虫になってるって、変ですよ。(千野帽子・前掲)●