2016/06/10

■似た句が出てきたとき

備忘録的に。








どう似ているかの「どう」という部分が存外重要だったりします。少なからぬ句に、それと似た句がすでにあるだけに。

田島健一さん(@tajimaken)の一連のツイートはこのケースで順当。


一方、「似ている句があるよ」という指摘は、大いにアリ。「けしからん」との追及をくっつけるかどうかは別にして。

パターンをみなで確認するという意味でも。

その場合、具体例を以てするのが適切。具体例を挙げるまでもなく、「よくあるパターン」も、いわゆる類想もあるけどね:駅と訛り、表札と故人、等々、それはもうふんだんに。


俳句をつくる人は、似たようなことをやっているのだ、という認識というか覚悟が必要なんだと思っています。これは悲観でもネガティブでもなく。


余談01

似た句があるかないか、ではなく、新鮮かどうか。私はそこを考えているかなあ。取り上げられた句の場合、もし仮に、他に似た句がないとしても、新鮮かどうか、という点で、どうなんでしょう。新鮮じゃなきゃダメというわけではないですよ。為念。くりかえされて、俳句のレガシーを悦ばしく受け継いで気持ちのいい句もありますからね。

余談02

じゃあ、パターン(この句の場合、✕✕が贔屓の△△△。ほかにも当然たくさんある)は使ってはダメなのかというと、そんなことはぜんぜんなくて、《おとうとが贔屓の陰間茶屋残暑》とかなんとか、作風・芸風に合わせて、やってみればいいんです。俳句は陣取り合戦(誰が先に詠むか合戦)じゃないですし。

でも、パターンにあてはめるだけだと、持たないですよ。作る興味が持続しない。自分でおもしろくなくなってくる。


だいじなのは、それがパターンだってわかること。この、わかる・わからないが初心者とそうじゃない者を分け隔つ点でもあるでしょう。

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