俳句よりも川柳のほうが自由という声をたまに聞きます(逆はあまり聞かない)。
で、私がどう感じているかというと、「いいえ。ぜんぜんそう思わない」。
つくるときの束縛の多寡に関して、ルールに関してということだろうと思います。「俳句は季語を入れなくちゃダメ」とかね。
まずもって、ルールのないところに自由も不自由もない、ということはあるのですが、それを言うと、俳句のルールを因習的なものまで含めて全面的に肯定してしまうことになるので、これは撤回。「俳句のルール」について説明しましょう。
まず季語。んんとね、俳句は、季語が入っててもいいし(なんなら5つ6つ入っててもいい)、入らなくてもいい。俳句=季語が入る、というのは大きな誤解です。デマみたいなものかな。
五七五定型に関しては、川柳も同じ。ただし破調もオッケー。
次に、「なにを詠むか?」という問題。俳句の場合、詠みたいものを詠む。川柳はどうなんでしょう? よく知らない。
一方、川柳って不自由だなあと思うところがあります(間違ってたら言ってくださいね)。
まず感じるのは、句会でのウケが最優先されているっぽいこと。川柳用語で言う「抜く・抜かれる」。それが目標になる。これは、そうとう不自由。
(もっとも、俳句でもそういう態度で作っていると、同様に不自由です)
次に、何かを言わなけばいけない、といった拘束・強制。
古い川柳観かもしれませんが、たいていの句が何かを言おうとして饒舌。なかには、「反体制」「反権力」みたいなスタンスを強制されていると思しき句もある。権力や為政者への皮肉やアテコスリで悦に入っているような川柳に、「いったいいつの時代だよ」と思うことがあります。
その点、俳句は、何も言わなくていい。
反対に、叫んでもいい。「ちょっと。きみ。声でかすぎ」とツッコミは入れますけどね。
さらに、俳句は、自分(作者)がいなくてもいい。「自分という不自由」にとっつかまることもない。
(「自分という監獄から早く出ておいでよ」と思うことが、ジャンルによらず多々あります)
かようなわけで、「俳句よりも川柳のほうが自由」という俗説には、まったく与しないわけですが、いちばんだいじなことが最後になりました。
とても重要なことなので、囲みにしておきます。
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川柳が自由なわけではなく、俳句が自由なわけでもない。
自由は、〈自由を行使する人〉に存在する。
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