「俳句はもうほぼ足りている。そんなにつくったり発表したりする必要がないくらいに……。どっちかというと、余っている」
「俳句はほとんど読まれていない。結社誌が送られてきても、自分の句がどこにあるか探すくらいで、他人の句なんてほんの少ししか読まないみたいですし」
…と、昔からよく言われているお決まりのセリフが口をついて出たのですが、その酒席が結社の集まりということを忘れとった。きょとんとされて、その瞬間、その場だけ、ちょっと妙な雰囲気に。
やった! 空気、変えた。
(というと、場をわきまえず暴れたみたいに聞こえますが、おおむねすごく良い子してました)
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読者よりも作者のほうがはるかに多い倒錯的状況のなか、週刊俳句は「ちっとは俳句を読みましょうよ」運動だったのです(過去形でいいのか?)といった話の流れのなかの会話でした。
で、すこしは読まれるようになったんですかね、俳句は。
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「純粋読者」という俳句世間・俳句業界に独特の用語があります。作らずに読むだけの人をこう呼ぶわけですが、おかしな話で、作る人も読者にはなれる。
すべての作者が読むようになれば、読者人口と作者人口は、少なくとも同数にはなる計算。
問題は、作る人が、「読者」としてではなく「作者」としてしか俳句を読んでいないことでしょう。
(句会ではその傾向が顕著になる。句会でいくら句を読んでも読者にはなれない)
(例えば主宰は、選者として膨大な句を読むが、読者としてどれほど句を読んでいるかはわからない)
ひとりの人は、(純粋)作者であったり、(純粋)読者であったり、その同時であったりするわけですが、《読者になる》という意識や努力は、《作者になる》よりもはるかに難しいものかもしれません。
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俳句は、もう足りている。
それでも俳句総合誌、結社誌、同人誌が毎月毎月次々発行される。ゴミの山にゴミを足していくようなものです。
ただ、これが無為でバカげたことかというと、そうとも言いきれなくて、俳句を読むとは、ゴミの山から(自分の)宝物を探し当てるようなところがあります。ゴミの山が日々ふくらみ巨大化していくのは、しかたのないことなのかもしれません。
とはいえ、出し放題はいけません。
私個人でとしては、出すゴミの量をこれまでよりいっそうコントロールしていく所存であります。
さて、それでは、そろそろ、踊りますか。
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