週刊俳句・第500号ではたくさんの人のいろいろな記事をたのしく拝読。
1 ああ、こんな記事あったなあ、というなつかしさ
とりわけ、岡野泰輔さんの記事にあったコレ。
〔サバービア俳句・番外編〕SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly
俳句を始めるはるか以前の友人との会話は(BBSかメールだけど)、自分がリラックスして楽しげなのが、いま読んでもよくわかる。
2 あらためて週俳がどんな存在なのかが腑に落ちた
荻原裕幸さんの「空気のようなものとして読者に送り続けてくれる」「混沌を、混沌のまま抱えて、決して明確な輪郭を与えようとはしない」といった表現、田島健一さんの「誰もが自分だけの俳句を抱えながら、予定調和に抗して固有の俳句を書くための努力」といった把握など、【週俳500号に寄せて】のコーナーのいたるところに含蓄を見出だせる。
なかでも、「ああ、そういうことだったのだ」と納得したのは、トオイダイスケさんによる次の一文。
そこに何かを築き上げるためでなく、どこかに行こうとする誰にとっても寄ることができる場所
週俳をスタートさせ、続けてきた、その根本のところには、コレがあったのだ、と。自分のなかのふわっとした企図やスタンスを、これまでになかったかたちで喩えてもらっている。
「築かない」のは読者だけではない。週俳も、そこになにかを築いたりしない。言い方を換えれば、毎週更地になって別の建造物が建つ。誰にとっても中継地点であること。それが週俳のめざすところなのですね、きっと。
4 件のコメント:
日曜日。最新号の岡野泰輔さんの記事で見つけたときは吃驚! …あ、私、全号読んでます。全頁はムリでも(いっこうに俳句わからない)、少なくとも編集後記だけは全部。アウトサイダー代表ですから(笑。今日、重ねてこうして触れていただき、ああ、ありがたい、恥ずかしい、でも懐かしく振り返っていました。500号、おめでとうございます。
おお! 全号!
全頁は、私も読んでいない(ここだけの話)。
あ、そうそう。武蔵小杉は自転車で何度も行ってる。また、自転車で遊びに行くわ。
わ、ロングライド。通り過ぎてるし。うちで給水休憩してください。
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