すると、「意見」だらけのレポートが大量にやってきた。
友人は、目を通しながら、キレた。「誰が『おめえの意見を聞きたい』と言った?」「誰がそんなものを読みたい?」
ちなみに、そこは、いわゆる入試難易度がまあまあ高い大学。
こんなもの読んでられない、もうヤだと考えた友人は、次の課題のとき、「自分の意見を1行でも書いたら、単位はあげない」と宣言したそうな。
友人、ナイス。
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社会科学のレポートとはすこし違う話ではあるのですが、福田若之さんの話題沸騰記事、
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html
このコメント欄を見ると、みなさん、「意見」が大好きの模様。
「ふくだくんは自分の意見をゆってるからえらい」
「自分の意見」に過度な価値を置くという風習は根強いようでです。
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意見をもつ、意見を表明するのは、いいことです。きっと。
でも、記事に意見がなくてはいけない、なんてことは、ぜんぜんない。
この手の記事で、意見に優先するものとして、論理〔*〕は言うまでもないこととして(明快がよろしいです。韜晦、詭弁etcを含んで良し。通しで見て明快なら)、口調・語調の選択(好みもあるけど、軽快がよろしいです)、愛嬌(これは記事や文章に限らず、欲しい。どんなに怒ってても、どんなに悲痛でも、愛嬌がほしい)、笑い(サービス精神は美徳)等々。意見は、それらに優先しない。
(福田記事に、論理は、ある。愛嬌や笑いは足りない)
ともあれ、この「自分の意見」への過信はいったいどうしたことなのでしょう? そう教育されてきたのか? 不思議です。
〔*〕論理の一語が含む要素は多様。理路、課題の整理、論点の整理、敷衍、対象にするものの価値の摘出、同じく齟齬・瑕疵・矛盾の指摘、水平・垂直の参照(つまり地理的・歴史的視野をもつということね)などなど。
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