2017/05/20

■俳句の無形文化遺産登録にまつわる福田記事の良いところ

福田若之さんの記事、
有馬朗人氏に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html

この記事で私が良いと思うところは、内容ではありません。「週刊俳句に書いた」ということ。そこに意義があります。

新聞記事・有馬朗人インタビューを私はツイッターで知りました。ツイッターをやっていないけれど、福田記事で、これを知ったという人もいるでしょう。それ、だいじ。いろいろな場所で知る機会が生まれるのは、とてもいいことです。

だから、ツイッターで「言葉少なにつぶやくだけ」(福田)でも意義があると、私などは思うのですが、福田さんはそうは思わない模様(後述)。

ちなみに、「僕にはそのことが有馬氏の発言にもまして不穏なことに感じられる」という福田さんのセンスは、謎すぎて私には理解不能。不穏? 有馬氏の発言にもまして?(たしかに有馬氏は「不穏」というより、単に無邪気に名誉欲や権威に気持ちが向かう感じですが)

むりやり理解しようとすれば、この文言に続く内容、すなわち、つぶやいているだけじゃあダメ、「いいね」やリツイートしてるだけで「いったい何が変わるというのだろう」といった煽りを含む段と呼応しているのでしょう。

このあたりは、文言のクリシェ(紋切り型)というだけでなく、把握のクリシェ、反応のクリシェにも思えるのですが(ツイッターで不安や嫌悪をつぶやく・さえずるだけじゃダメだ! 行動に移さなきゃ! アンガージュマンだ! といった状況理解と提案・煽動のクリシェ)、それは、まあ、いいとして、さて、そこで、福田さんが、どう変えようとするのかが問題になる。

つまり、小津夜景さんが言うように(http://yakeiozu.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html)「ネットで有志を募って、さっさと四協会に公開質問状出しちゃ」うことも選択肢に含めて(それがいいとは思わないし、私は「有志」にはならないけれど)、今後のこと。

言葉少なにつぶやくだけで済ませてしまっている」と言うのであれば、「言葉多めに書き連ねるだけで済ませてしまう」ことのないような、何か。

でもね、福田記事の結語に、「ひとりひとりがもっと多くの言葉を費やしていくしかないはずだ」とある。つまり、みんなも書いてね、ボクは書いたから、ということのようです。ありゃま、なんじゃこりゃ、へなへなへな(ここ吉本新喜劇とかで使っていたトランペット)となった人もいるでしょう(小津さんもそうだったんだろう)。

けれども、私は、それでも意義はあると思う。最初に書いたように、いろいろな場所に今回の件(無形文化遺産うんぬん)を知る機会が生まれれば。

ただ、ちょっとヘンだなと思うのは、ツイッターでの発言を「済ませてしまう」と表現し、その後を悲観的に捉える一方、ある程度の長文(例えば、今回の福田記事)を「済ませてしまう」とは考えていないように聞こえる福田さんの把握・理解。

いいかえれば、ツイート(広くはSNS?)への差別意識?(ちょっと大袈裟)

私は、週俳記事>ツイート、とは考えない。

例えば、福田記事は、定義が排外を招く、と要約できますが(我流すぎる要約? そんなことはない)、そのことはすでに四ツ谷龍さんがツイッターで簡潔に述べている(前掲福田記事の末尾にリンク)。

長く書くのがいいとは限らない、ということです。

と言いつつ、この記事、ずいぶん長く書いてしまったなあ、と反省。そろそろシメましょう。

週刊俳句に、福田さんが今回の記事を書いたことに大きな意義がある。最初に言ったように、これが要点。アクセス数も多いようで、たくさんの人が、有馬インタビューを知ることになりました。

福田記事のダメなところについては、また後日。

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